夢の果てに願ったモノ…


 ラストで大きく響くユーリの歌声。鋭く鳴らされるスマイルのギター。一気に迫り上がるアッシュのドラム。その一切が消えた瞬間、
「新曲リハ終了ー!!」
 アッシュがそう叫ぶと同時にユーリは軽く息を吐き、スマイルはその場に倒れ込んだ。その様を見かねてアッシュが近寄る。
「大丈夫っスか? スマ」
「……この曲……ギターきつすぎだよぉ……一回通しただけで死んじゃうよぉー」
 床に突っ伏したまま唸るスマイルに、ユーリが声をかける。
「まぁそう言うな。お前がいつもいつも『ベースじゃなくてギターもやりたい』というからわざわざ作った曲だぞ。今回の曲はギターが無いと成り立たんのだ。逆に言えばギターが見せ場なのだから」
「でもぉー……」
 今のユーリの言葉には、“逆に言えば”の後に“私の歌の次に”という言葉が隠されていたであろう事に、隣で聞いていたアッシュは察すると同時に苦笑を漏らした。今日はこの城の中に備えられたホールで、新曲を初めて最初から通してみたが、どうやら予想以上に難易度の高い曲だったようだ。アッシュはタオルで首を拭いながら、まじまじと今回の譜面を見直す。スマイルのギターもきつそうだが、自分のドラムもかなり厳しそうだ。これから毎日練習する必要があるだろう。
「ねえ! このギターもうちょっと優しくならない!? 例えばこの部分削るとか!」
「駄目だ。そこは非常に重要な部分だからそのままだ」
「もうちょっと僕を労わってよリーダー!」
「お前が成長する為に私が与えた愛の鞭だと思え」
「そんな愛いらないよ!!!!!」
 殆どスマイルの声は泣き声に近い。必死の形相で訴えるスマイルを涼しい顔で受け流すユーリの様を見て、アッシュは声をあげて笑った。
 のどかで、平和で、この日々は楽しい。この仲間に会えて本当に良かったと、アッシュはしみじみ思う。本番まで、二人の体長管理には充分注意しよう。
 今晩も栄養バランスの整った献立にしようと考えるアッシュの耳に、ホールの扉をノックする音が入った。
「ふふ……今からそんな調子では、本番はどうするのですかスマイル?」
 柔らかな声と共に足を踏み入れ、三人に満面の笑みを浮かべ、
「差し入れですよ」
 そう言ってアイスティーとサンドウィッチを乗せた盆を差し出すジズの姿を見て、スマイルは途端に元気になって飛びついた。そのままでは折角の差し入れがひっくり返してしまうので、ジズは苦笑しながら器用な身のこなしでそれをかわした。

「そうですか。次のライブまでには間に合いますか」
「ああ。とりあえずは順調だ。美味いなこのアイスティー」
「あ! スマその卵サンド俺の!」
「えー? 早い者勝ちだよ!」
 差し入れが来た為に一旦休憩に入り、円テーブルを囲んで談笑が起こった。バンドメンバー三人と親しいジズは、よく練習中に差し入れを持ってきてくれる。二ヶ月先に控えたライブの練習が始まったので、今回も三人の為にわざわざ差し入れを運んできてくれた。
「良かった。次のライブはメメも楽しみにしているんですよ」
 笑顔を浮かべながら話すジズに、アッシュはハッと顔を上げる。
「あ! ジズ今日これから空いてる?」
「本人は絶対最前列狙うって張り切っています」
「空いてるんだったら俺とお茶でも」
「今日も来たいって言っていたのですがねぇ」
「いやぁもうお茶より食事っスかね?」
「仕事が入って来られなくなってしまったんですよ」

 THE 完全無視。

 いつもの事ではあるが、眼中に入れてもらえずアッシュは床に手をつき悲しげに震え、それをスマイルが楽しそうに笑う。いつもの事。
 そんな事にいちいち構ってやいられないと、ユーリは一人素知らぬ顔でアイスティーを飲みながら、
「そうか。メメは死者案内の仕事があるからな」
「ええ。最近は多くなっているので、私も手伝っていますが……」
 その返答に、ユーリは少し怪訝そうに眉を寄せてジズを見返した。
「――多いのか?」
 半ば探るような調子に、ジズは苦笑を浮かべ、溜め息まじりに言う。
「残念ながら……。いつの時代も、戦争は無くなりませんね……」
 憂いのこもったジズの声にユーリはしばし黙り込み、またアイスティーを一口飲んでから再び言葉を発する。
「……だが……まぁ昔よりはマシだろう。百年戦争やら何やら……あの頃に比べればずっと平和なのではないか?」
 ユーリの考えに、ジズは確かにそうかもしれないと肯定の意を発しようとした。
 が、

「特に――“魔女狩り”があった時代よりは」

 その一言に、ジズは瞳を見開いて硬直する。その単語を聞いた瞬間、実体化しているが故に存在する鼓動が、激しく高鳴った。
 そんな異変に気付く事なく、スマイルが確認するようにユーリへ問いかける。
「魔女狩りって……中世の?」
 このメンバーの中では最も年少のスマイルでも解るのかと、ユーリは少し驚くと同時に感心しながら更に詳しい説明を話す。
「そうだ。中世末期以来、ヨーロッパのキリスト教会が行った、魔女に対する徹底的弾圧」
 人知れず俯き、ジズは生唾を飲み下した。
「14世紀以降4世紀間に渡り――つまり約四百年もの間、おびただしい犠牲者が血祭りに挙げられた。特に宗教改革が起こった16〜17世紀に最盛期となり、1692年アメリカのマチュッセ州の“セーラムの魔女事件”を最後に、急速に衰えたと言われる。だが無実の犠牲者の数は計り知れんな。何と言っても四百年だぞ?」
 淡々と綴られる言葉を、ジズはそれ以上聞いていたくなかった。動悸が速まり、右手で左の二の腕を抱くが体が震える。うっすらと冷や汗が浮かぶのを感じながらも、ユーリの言葉を遮れば不審に思われるだろうと考え、ただ胸中から溢れる冷たい記憶を堰き止めるのに全霊を注いだ。
 しかしユーリの論評に興味を示したスマイルが、煽るように意見を添えた。
「へぇ……流石ユーリは物知りだねぇ! でも四百年も女の人ばっかり殺されちゃったんじゃあ、その間子供産む人少なくなって、人口減ったりしなかったのかなぁ?」
「いや、実は“魔女”とは女性を指す訳ではないのだ」
 その答えにスマイルは二、三度瞬きをして、
「魔“女”なのに?」
 訪ねて小首を傾げる。
「ああ。“魔女”とは、悪魔崇拝者や異端者や……まぁつまりは悪行を働いた者を総じて示していた言葉だから、男性も含まれる。実際に魔女裁判にかけられたのは、女性より男性の方が多かったらしい」
 呼吸が、荒くなる。
 そう。ユーリの話は正しい。だから自分が口を挟む事はできない。
 しかし、この話は正にその魔女呼ばわりをされた自分には、生々しい過去のフィルムを嫌でも再生させてしまう。もう七百年以上昔の事だと言っても、ここまで詳しく論ぜられると恐怖が濁流となって体を支配する。
 ユーリが、このように自分の知識をスマイルに提供するのはよく有る事だが、今回の話題はジズの前で話すのは好ましくないと、ただ一人彼の過去を知っているアッシュは気が気でなかった。そして長い前髪から盗み見るようにジズの様子を窺ってみれば、案の定彼は怯えている。
 これ以上は、マズい。
「……おい……ユーリ……」
 出来るだけ、何気なく声をかけたつもりだったが、微かに苛立ちが籠ってしまったのが自分でも解った。しかし囁くようにして発せられたアッシュの言葉には気付かず、ユーリは更に話を進める。
「狙われたのは主に資産家だったと言われるな。それに加えて――」
 もう一度声をかけようと口を開いたが、遅かった。

「“外見に普通と違う処”がある者は即魔女扱いだったと言われ」

「ユーリ!!」
 アッシュが鋭く叫んだのと、ジズが椅子から立ち上がったのは、ほぼ同時だった。
「……すみません……私、そろそろ……失礼しますね……」
 ジズはすっかり血の気が失せた顔で弱々しい笑みを浮かべ、微かに震えの交った声でそう言い、すぐさま身を翻した。
「ジズ!」
「え? もう行っちゃうの?」
 狼狽して叫ぶアッシュにも、残念そうに呟くスマイルに応えもせず、ジズはそのままホールから出ていった。
「……何だ? 具合でも悪いのか? 急に顔色も悪く……」
「ユーリ!」
 ホールの扉を見やりながら呟く彼に、アッシュは苛立ちと怒りを露わに歩み寄る。
「お前……ジズの前でそういう話するなよ!!」
「え?」
 その言葉に、ユーリは不思議そうに眉を顰めてアッシュを見上げる。
「何故だ? 魔女狩りはれっきとした史実だぞ? ジズと魔女狩りとが、何か関係あるのか?」
 問われて、アッシュは口を噤む。そうだ、関係は大ありだ。しかしそれを二人に話す事は絶対にできない。彼の過去を知っているのは自分だけだ。七百年という膨大な時間、これまで誰にも打ち明けなかった過去を、彼は自分にだけ話してくれた。それを簡単に口外するなど言語道断だ。
「……いや……あの……」
 言葉を濁すアッシュに、スマイルは不審に思う。
 ――アッシュ……何か知ってるの?
 この三人の中で、自分はジズと一番仲が良く、一番彼の事を知っている筈だった。最も年少だが、それでもジズとは一番仲がいいと胸を張って言える。何を隠そう自分はジズの親友で、ユーリは別に仲が悪い訳ではないが、友人というレベルの親しさだ。アッシュに至っては、つい最近までジズを嫌っていた。それが何故か、今ではジズの恋人になりたがっていて、その経緯がスマイルには全く解らなかった。ユーリもアッシュもジズも、自分の大切な親友だ。その大切な人達が嫌い合うよりは、好いてくれる方がいいに決まっている。しかし、自分が知らないジズの何かを、アッシュだけが知っているのではないかという不安に駆られた。
 自分でも知らない事を、何故アッシュは知っているのだろう。ジズの事は自分が一番よく解っているというプライドが、少し傷ついた気がした。
 ユーリの疑問とスマイルの不審の目に見つめられ、困惑しながらもアッシュは何とか口を開く。
「――ほら……ジズって……ヴェネツィア出身だろ? 実際にソレがあったとこだから、色々と生々しい話聞いてて……思い出すと気分悪くなるんだってさ……」
「……あ……成程」
 苦し紛れにそう言ったが、二人は納得してくれた。が、
「! 待て! という事はあの顔色は私のせいか!? すまん全く気がつかなかったが悪気は無かったのだ!」
「いや、あの! 僕も話煽っちゃって!!! ごめんそう言えばそうだよねぇ?」
 逆に慌ててしまった。アッシュは内心苦笑すると同時に安堵の息を吐く。正直言って、馬鹿で良かったと思った。
「――まぁ、そういう事だから、俺ちょっと様子見てくるっス」
 頭を抱えている二人を残して、アッシュはホールから出て行った。

 もう既に城からは出ているらしく、そのまま外に踏み出した。
 ――ジズ……何処に行ったんだ?
 辺りを見回すが、人影は見えない。幽体化して飛んでいってしまっていなければ、まだそう遠くには行っていないだろう。
 少々可笑しな気もするが、ジズは幽霊のくせに普段殆ど実体化している。それは彼が“生”に執着しているが故の事なのだろうと、今のアッシュには理解できた。彼が自分から幽体化をするのは、何かよほど急いでいる時のみだ。今ならどちらかと言うと実体化している可能性の方が高いだろうと、とりあえず歩き回ってみた。城の周りを囲む林を普段より早足で進んでいく。
早く、何とかしてジズに会わなければ。
 気持ちばかりが焦り、もどかしさに胸が苦しくなる。あの話はジズの前では禁忌だ。それを知らなかったユーリとスマイルに面と向かって怒りをぶつける事はできないが、それでも苛立ちがこみ上げる。それと同時に、少し前まで全く気にかけていなかった相 手に対して、こんなにも心配している今の自分が可笑しかった。
 暫く歩いていくと、木々の開けた場所に十字架の立った白い建物が見えた。少し古びた教会だ。幽霊であるジズがそこに居るとは思えなかったが、何となく、足はそちらに向かっていった。錆びの浮かんだ扉に手をかけ、ゆっくりと細く押し開けると中から歌声が聞こえた。
 今日はミサも無かった筈だが――
 そう疑問を巡らしながら中を窺い、アッシュはそのまま瞳を見開いた。
 くすんだ赤い絨毯の上、祭壇の前で十字架を仰ぐようにして謳う、彼の赤い羽根飾りが揺れていた。
 後ろ姿だったが、それはとても幻想的な光景だった。
 ステンドグラスから差し込む七色の木漏れ日。それに照らされて柔らかな光を反射する巨大な銀の十字架。それに磔刑にされたイエス像の表情。中央通路に凛と佇むジズの黒い服は、さながら礼服を纏ったように見え、帽子に付いた赤い羽根飾りは緩やかに揺れていた。
 そして何よりも、まるで魂に直接響くような、彼の何処までも透き通った声が、この場の空気をより神聖なモノに包みこんでいた。
「……」
 ゆっくりと教会の中に踏み込み、扉を閉める。と、その音に気付いたジズは途端に謳うのを止めて素早く振り返ったが、入ってきたのがアッシュと確認すると安堵の息を吐いた。
「アッシュさん……」
「驚いたな。まさか教会に居るなんて……」
 そう笑いかけながら、彼に近づく。
「こんな十字架だの何だのがゴロゴロしてるとこに居て平気なんスか?」
 少し不安そうに訊ねるアッシュに、ジズは目を伏せ、
「ええ。幽体化はできませんが、触れなければ大丈夫です」
 伏せた瞼からまつ毛で影を作りながら、落ち着いた声音で応えた。
 霊であるジズは、十字架や聖水や聖杯に触れられない。もし誤って触れてしまえば肌が焼け爛れる。十字架ならくっきりと十字架型の痕が残るし、聖水をかけられようものなら、まるで熱した油をかけられたような惨事になってしまう。普通の怪我なら一晩で治るが、聖なる物によって付いた火傷は普通の人間がそうであるように治りが遅いらしい。
 又、そういった聖なる物が在る場所には聖気が満ちる為に幽体化ができなくなるらしい。この教会も、古い質素な創りだが聖気は或るらしく、幽体化はできないようだ。弱っている時では聖気に耐えきれず倒れてしまうらしいが、今は正常なので大丈夫なのだろう。そういった知識を、アッシュは少し前にジズから教えてもらった。
「――ジズの歌も初めて聞いた」
 その言葉に、彼はこれまで伏せていた長いまつ毛を上げ、キョトンと首を傾げる。
「え?」
「さっきの……何て歌? 賛美歌……な訳ないか。そんなん自分で歌ったら大変っスよね」
 自分で言ってから苦笑するアッシュに、ジズは何処か悲しげな微笑をその顔に浮かべ、
「――――……鎮魂歌です」
 その言葉を聞いた瞬間、アッシュは瞳を見開いて息を呑んだ。
「あの時代――魔女狩りで亡くなっていった人達へ……」
 ステンドグラスの向こうで、木々がザワザワと不安な音を立てる。二人を、磔刑にされたイエスの像が無言で見下ろしていた。
「霊である私が鎮魂歌だなんて……可笑しい話ですけどね」
 顔を上げ自嘲気味に笑うジズに、アッシュは渋い表情で首を横に振った。
「――そんな事無いっスよ……」
 自分の軽率な質問に吐き気がした。賛美歌と鎮魂歌の違いなど、その雰囲気で解る筈だ。頭ではそう理解しているが、それでも先程聞いたジズの歌声は、まさか鎮魂歌だとは思えない程神秘的な響きを放っていた。自己矛盾している考えを振り切り、今度は真っ直ぐジズを見据えた。
「あの……ユーリは悪気があった訳じゃなくて……」
「解っています。大丈夫ですよ」
 微笑み、アッシュの言葉を遮ってから、腕で自らの体を抱き込んだ。
「駄目ですねぇ私は。もう七百年も前の事ですよ? なのに、まだ少し話が出ただけで怯えるなんて……」
「それは仕方のない事っスよ」
 そう言って笑ったジズの、底知れない悲しみが湛えられた瞳をそれ以上見ていられなくて、アッシュは両手で彼を抱きしめながら言葉を発した。
「ジズの一番深い処に或る、一番脆い部分なんスから、触れられたら痛むのは当然の事っス……」
 自分とは違う、筋肉のついた褐色の腕。その両腕にしっかりと、しかし優しく抱きこまれ温もりを感じた。例え実体化していても、自分には“体温”という物がない。偽りの心臓は実体化した時のみ脈動するが、それも幽体化してしまえば聞こえる事もない。
 どんなに生に執着しても、自分は所詮死人なのだと嫌でも思い知る瞬間だった。それはたまらなく辛かった筈なのに、今はその体温が酷く優しく沁み渡る。それが何故なのか、理由はもう、とっくに知っていた。
 そっと背中に回されたジズの腕に気付いて、アッシュは驚愕する。
 ジズが、あのジズが酔っていないのに背中に手を回してくれた。嬉しい。たまらなく嬉しいが、実はワイン四本飲んでいたというオチはないだろうか? あり得るかもしれない。そうでなかったら普段は『子供みたいなあやし方しないで下さい!』と引き剥がすのだ。今のこの状態は嬉しいが、やはりオチ付きなのだろうか? しかし残念すぎる。これだけ喜ばせておいてそれは無いだろう!
 そんな思考をぐるぐると巡らせるアッシュの耳に、ジズのか細い声が、届いた。

「――貴方の体温……一番落ち着きます………」

 アッシュは瞳を見開き、息を呑んだ。胸に抱かれたジズは瞼を閉じて、体をアッシュに預けている。

 もう、認めてしまってもいいのかもしれない。

 ――本当ニ?

 この人は私の罪を受け入れた。私の心を包んでくれた。

 ――本心デハナカッタラ?

 それでもいい。私は私の本心をこの人に伝えたいだけ。

 ――“ソシテ彼ヲ殺スノカ?”

 違う!!

 心の中で叫んだジズに、アッシュは顔を綻ばせて、
「嬉しい事言ってくれるっスね、ジズ。愛してるっスよ」
 そう言われた瞬間、じんわりと瞳に涙が滲んだ。
 もう、迷う必要など無い。
「……アッシュさ……ん……」
「ん?」
「聞いて……頂きたいお話が……あるのです……」
「何?」
 切れ切れに口にするジズの言葉に、アッシュは抱きしめたまま耳を傾けた。
 鼓動が高鳴る。喉に息が詰まる。その言葉を口にする事を体が拒絶する。
「わ……私……私……も………」
 今伝えなければきっと後悔する。受け入れられなくてもいい。この温もりが今の瞬間に終わってしまうとしても、それでも――

「私も――貴方が好きですっ!」

 そう叫ぶと同時に涙は溢れて頬を伝い、アッシュは瞳を見開いて驚愕した。ジズの振り絞るように悲痛な叫びは空気を振動さ
せ、教会の壁にこだまする。その反響が二人の鼓膜に届く前の刹那に、脳に直接もう一人の声が浸透した。

〈許サレルトデモ思ッテイルノカ?〉

「!?」
 反射的に離れると同時に振りかえった二人を、祭壇の上のステンドグラスを背にして浮かんだまま見下ろす相手に、アッシュは愕然と呟いた。
「…………ジズと……同じ顔……?」
 薄いクリーム色の肌に漆黒の半仮面。長い金髪の間から覗く左目は冷たい深紅。髪は一つに束ねて肩に流し、無機質な白い紳士服と白い帽子。青い羽根飾りが揺れる中で腕と脚を組み、口元に不敵な微笑を浮かべた彼は、ジズと同じ顔だが決定的に違う冷たい眼差しで二人を見下ろしていた。
 そんな彼にジズは眉を吊り上げ、鋭く睨みつけながら口を開く。
「……来ると思いましたよ。声だけなら先程から聞こえていましたからね」
 その言葉に、彼は笑みを浮かべたまま、
〈ホウ……ソレハ結構。ナラバ解ッテイルノダロウ? オ前ガ先程言ッタ言葉ハ許サレナイト〉
「っ……お前……!」
 彼の言葉に苛立つアッシュを、ジズは顔を伏せて腕で制し、
「仰りたい事は解りました。まずは下りてきて頂けますか?」
 顔を上げて、強く厳しい瞳で彼を見上げ、

「私はもう、逃げるつもりはありませんから」

 凛とした声で、決然とそう言い放った。
 その言葉に、彼は愉快そうに口の端を引き攣らせ、ゆっくりと絨毯の上に足を下ろした。それと同時に、ジズは彼に向って力強く足を前に踏み出す。
「ジズ!?」
 慌てて名を呼ぶアッシュ。ジズそっくりな彼が一体どんな存在なのかは何も解らないが、明らかにジズに対して害を与えそうな相手に近づけさせたくはない。よく解らないが、彼はジズに物凄い悪影響を与えてきたような気がしてならない。周囲の者にそう思わせるような邪気を、この白い男は放っていた。
 引き留めようと手を伸ばしかけたアッシュに、ジズは振り返ると、無言で微笑む。
 それは、まるで“心配はいらないからそこで見ていろ”というような、不安を拭い去る笑顔だった。アッシュはもうそれ以上手を伸ばそうとはせず、真剣でいて温かな目で、一つ頷いてジズを送り出す。ジズもそんなアッシュに笑顔のまま頷き返し、それから鋭く目を細めて、キッと彼に向き直る。しっかりとした足取りで、彼の前まで歩を進める。そうして、彼の冷たい瞳を正面から真っ直ぐ見据えた。
 しん、と静まった教会のステンドグラスの向こうで、木々が揺れる。
 目の前のジズに背筋の凍るような笑みを浮かべたまま、彼は言葉を綴った。
〈逃ゲナイノハ大イニ結構。ソレデ一体ドウスルツモリダ?〉
「私はこれ以上、貴方のいいように踊らされるのは御免なんです」
 仮面の反対側から覗く彼の紅い瞳とジズの碧い瞳が、互いを真っ直ぐに見つめている。
 解っている。彼の深紅の瞳は自分の右目と全く同じだという事を。自分と全く同じ、それでいて対極の存在。自分の負の感情が凝縮した具現体。彼のこの冷たい瞳も、背筋が凍るような笑みも、元々は自分の中に確かにあった部分なのだという事を。彼という存在は、他ならぬ自分が無意識の内に作り出してしまった存在なのだから。
 だからこそ、“自分”から逃げる事はしない。
〈フ……踊ラセルナドトハ人聞キノ悪イ。私ハオ前自身ダ。ダカラ警告シテアゲタノダロウ〉
 ジズの言葉に、彼は目を伏せて嘲るように笑いながら言葉を綴る。
〈私以外ヲ、己以外ヲ愛スルコトハ契約ニ違反スルト〉
「いいえ。それは違います」
 断定的に言い放ったジズに、彼は初めて口元から笑みを消した。
「“感情”の変化など、毎日のようにしている事ではないですか」
 そうだ。気が付いたのだつい先程、アッシュの腕の中で自分の気持ちを認めた時。“自分”という最も強い柵から抜け出す糸口を。
「確かに私の契約内容は、“己の変化と引き替えに永遠の時を”でした。それはこの右目を見れば嫌でも思い出す」
 言いながら、ジズは自ら仮面を外した。そうして現れた普段畏怖とトラウマによって隠してきた右目は、彼と全く同じ深紅の瞳。しかしそれを、“自分”の前でまで隠す事はもうしない。
 自分は、欺かない。
「しかし“感情”の変化なら常にされている。善悪の判断や喜怒哀楽と恋愛感情とは、実質何の違いもない。それなのに何故恋愛感情の変化だけが契約違反とするのか?」
 外した仮面を足元に振り払うと、絨毯の上で軽く跳ねた。
 真っ直ぐに彼を見据えて、ジズは言う。

「それは、貴方が私を束縛したいだけで、実際には契約違反にはなっていないから!! 違いますか!?」
 
 その言葉に彼の顔から一瞬、完全に笑みが消えた。そう、彼は元々自分自身、それを無意識の内に己の中から分離させた存在だ。しかし完全に分離した訳ではなく、今も自分の中に存在している。そんな中途半端な状態から、また完全に同一化するべく自分を取り込もうと束縛しているだけだとしたら――
〈――成程。面白イ事ヲ言ウ〉
 一つ息を吐いてから、彼はまた笑む。
〈ソレデ? ソノ通リダトシタラドウスルノダ? 私ガオ前自身ダトイウ事実ハ変ワラナイ。何ガアッテモ、私カラハ逃レラレナ〉
「言った筈です。逃げるつもりなどないと」
 彼の言葉を遮って、ジズは続ける。
「貴方は私であり、私は貴方である。貴方という存在は私が造ってしまったものです。それは認めましょう。けれど――」
 そこまで言って、厳しく瞳を細めたまま真っ直ぐ彼を指差す。
「貴方は常に私の“中”に居て私を監視している。そうして私の魂を蝕んでいる。それはこの上なく不快なのです。貴方の都合のいいように踊らされ、弄ばれるのはもう沢山」
 そして決然と、言い放った。

「“分裂”して頂きます」

〈ナ……ニ………?〉
 ジズの言葉に、彼は怪訝な表情を浮かべて呟く。
「貴方は確かに私自身だ。しかしだからと言って、これ以上私の中に巣食わせる訳にはまいりません」
 言い切るジズを、彼は軽蔑するような目で見据える。
〈ホウ……デキルノカ? オ前ニ。オ前自身ノ分身デアル私ヲ己ノ中カラ引キ剥ガス事ガ、罪ヲ背負ウオ前ニデキルトイウノカ?〉
 彼の言葉に、ジズは瞼を閉じた。
「――私が罪を犯した事は事実。どう罵られようと構いません。しかし……」
 瞼を閉じればいつも、その闇の中に血の海に沈んだ彼女の姿が浮かぶ。いつも自慢にしていた金糸のような髪を血で汚して斃れた彼女の遺骸を前に、自分は更に自分を殺した。自殺者は、決して天国へはいけないという教えを胸に抱きながら、それでもこの世に縋りついた愚かな自分。だが、これまで彷徨ってきた膨大な時間は全てアッシュに出会う為の物だったとしたら、もう契約を結んだ事を後悔しない。
「その罪を犯した私の狂気や悪意の具現化である貴方ならば、もう今の私には切り離す事は簡単なのですよ」
 言い放つジズに彼が一瞬、初めて表情を曇らせた。


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