「もう、罪に縛られ、永遠に懺悔するだけでいいという気は無い。開き直った訳ではありませんが、己の罪に押し潰されているだけでなく新しい道を歩んで行こうと、手を差し伸べてくれた方が今、私の後ろで見守って下さっているのですから……」
 嬉しかった。自分の過去を知って尚、アッシュは自分と共に在りたいと言ってくれた。
「幸い、死後この世を彷徨って七百年でそれ相応の知識がついているのですよ。白魔術黒魔術は勿論、こういった己の別人格を切り離す方法もね」
〈ッ!?〉
 そう、知ってはいた。しかしこれまでは本当に自分の中から彼を切り離してしまっていいのかと考えていた。罪を犯した心を自分の中から分裂させるというのは、もう人を殺した事を否定するような、自分の罪から目を背ける事にはならないのかと。
 違うのだ。そうではない。何もできずに罪悪の鎖に縛られ、自分を責め続けるのではなく、これからはアッシュの為に歩んでいきたい。自分の罪を忘れるのではない。解放されたい訳ではない。罪はしっかりと胸に抱きながら、新たに足を前に踏み出して行こうと決めたのだ。アッシュと一緒に。
「さあ――私の魂から……」

 今の私には
    迷いはない

「分裂しなさい! “Razz”!!」

 バツンと鋭い音が響くと同時に、世界が一瞬暗転したような気がした。
 また元通りの景色に戻った時、ジズが何かの衝撃に押されたように吹き飛び、足で絨毯を擦りながらアッシュの目の前で踏みとどまった。
「ジズ!?」
 慌てて名を呼ぶアッシュには目もくれず、ジズは息を荒げながら彼の方を睨む。その顔には、じっとりと汗が浮かんでいた。

「成程……ソウクルカ………」

 初めて彼の声が、頭に直接響くのではなく鼓膜から届いた事に驚愕して振り向くアッシュの目の前で、黒い半仮面が絨毯の上に落下した。そこに現れたのは、左目と同じく深紅に染まった右目。長い金色のまつ毛と前髪の奥で、それは酷く静かに澄んで見えた。
「“名前ヲ付ケル”トイウ事ハ、ソノ物体ヲ支配スルト同時ニ一個体トシテノ分離ヲ意味スル。言葉ノ持ツ霊力、言霊ノ中デモ強イ力ヲ持ツ“イミナ”ヲ使ッタカ」
 淡々と言う彼は無表情でありながら、何処か寂しさを湛えているようにアッシュには見えた。
「……ええ。どうやら成功したようですね」
「ソウダナ」
 肩で息をしながら言うジズに、彼はそっけなく応えて天井を見上げる。
「Razz(ラズ)カ……意味ハ英語デ嘲笑、軽蔑。確カニ私ノ存在意義ニ適シテイル。デハ今カラ私ノ名ハ ラズ ダナ」
 そう言って目を伏せたラズは、ツカツカと二人の前まで歩み出る。
「っ!」
 身構えるアッシュをよそに、そのまま通り過ぎた。
「シカシ、覚エテオクトイイ。“ジズ”」
 背後から掛けられた言葉に、ジズはビクンと肩を震わせる。今初めて、彼は自分を名前で呼んだ。ラズも又、ジズを己とは違う一個体の存在と認めての事だ。互いに背を向けたまま、彼は続ける。
「例エソノ身カラ離レテモ、私ガオ前自身デアル事ニ変ワリハナイ。私トイウ存在ガ消エタ訳デハナイトイウ事、ソレヲヨク覚エテオクガイイ」
 その言葉を最後に、ラズはそのまま二人を振り返る事なく教会を後にした。
 ――ええ。そうでしょうとも……
 ラズの言葉に目を伏せ、眉を寄せて涙を堪えた。解らないが分裂した瞬間、自分の中の大切な部分が消えてしまったような――ポッカリと空洞ができたような居た堪れない空虚さを感じた。
 自分は何かを見落としているのではないだろうか。ラズは憎悪や悪意の塊でしかないと思っていたのは間違いなのではないだろうか。彼も又、自分なのだから――
「ジズ……今のって………」
 やっと口を開いたアッシュに、ジズは思考をやめてゆっくりと振り返る。
「――ね? 私、頑張れたでしょう?」
 そう言って柔らかく微笑むジズにアッシュも笑い返したが、直後大きく傾いた彼の体に、笑顔はすぐにかき消えた。
「ジズ!?」
 慌てて抱きとめたアッシュの腕の中で、ジズは苦しそうに顔を歪ませて荒い呼吸を繰り返す。今の分裂で霊力を使い果たして弱ったが故に、これまでは平気だった教会の聖気に耐えられなくなったのだ。これでは毒ガスの中にでも居るようなものだろう。
 それに気付いたアッシュは素早くジズを抱き上げ、そのまま教会の外に駆け出した。ここからならばジズの家に行くよりも、自分達の城に戻った方が近い。ユーリとスマイルには適当にジズの具合が悪くなったとだけ言えば大丈夫だろう。深く追求されたら、その時言い訳を考えればいい。何故だか、今の一件は簡単に口外してはいけないような気がした。
 アッシュはしっかりとジズを抱えて、全速力で城に向った。
 教会の赤い絨毯の上に、白と黒の半仮面だけを残して――

       

「――もう……大丈夫っスか?」
「はい。ご迷惑をお掛けして……すみませんでした」
「気にしてないっスよ。迷惑だなんて思ってないっス」

 アッシュの部屋に運び込んでから数十分後、目を覚ましたジズはもう顔色も良く、心配しなくてもよさそうだった。突然ぐったりと意識を失ったジズを運びこまれてユーリとスマイルは仰天したが、具合が悪いとだけ言うとベッドに運ぶのも手伝ってくれた。特にスマイルは取り乱したが、そこはユーリが抑えてくれた。しかしそれよりも、ジズの仮面は教会に置いてきてしまったので、二人から彼の右顔を隠す事で必死だった。目を閉じているにしても、それを見られれば普段仮面を付けている理由は目にあるのではと思われかねない。とりあえず、ジズが目を覚ましたら知らせるからと言って、自室に運んだ。
「“ジズの対極な面が具現化した存在”か……。難しいっスね」
 ラズが一体どういう存在なのかを詳しく説明し終わると、アッシュは重い溜め息と共にそう呟いた。
「ええ。でも……もう彼は私の中には居ませんから……」
「それって、もうジズの中には、その……悪意だの憎悪だのはなくなって、ラズになって分裂したって事っスか?」
「そうではありません。確かにラズは私の負の感情の凝縮体ですが、それはただ、彼という形になって具現化しただけで、私に全く負の感情が無くなった訳ではありませんよ。今だって、昨日壱ノ妙がお茶をひっくり返したのを思い出すと腹が立ちますもの」
「あはは!」
 しばし笑いあってから、ジズはまた静かに言葉を紡ぐ。
「彼は私自身ですから、何があっても消滅する事はないでしょう。しかし今までよりは……一歩前へ進めた気がするんです」
 内に潜む、余りにも色濃く凝縮した己の罪に怯え、恐怖していたつい最近までとは明らかに違う。自分に、自信をもつことができた。
 目を閉じてそれをじっくりと再確認するジズの体を、柔らかな温もりが包み込んだ。
「お疲れ様。ジズ……」
 アッシュの両腕に抱かれて、幸福な気持ちで目を閉じる。
 本当に、何よりも落ち着く彼の体温。命ある者の温かさ、それは生の証。
 自分も七百年前のあの日までは、体温というモノをもっていた事が疑わしい程、自分にとっては遠い存在となっていた。
 外気の温度、紅茶の温かさは知覚できても、自分自身には温度がない。昔、まだそれを知らなかったスマイルが、冬の寒さの中自分に温もりを求めて手を握って、その冷たさに飛び上がった事もあった。外気の温度を感じない吸血鬼とは違う、不思議な感覚。吸血鬼は気温を知覚しないが、体温は低いが存在する。汗をかかない彼らは水に触れる事もできず、また流れる水の上を渡れないなど不憫な面は沢山あるが、それでもジズには羨ましく見えた。暑い寒いを感じなくても、体温があるのは生の証。どんなに生に執着してもそれだけは変わらず、埋めようとすればするほど露骨に浮き上がり、自分を苦しめた。
 だが彼だけは――アッシュの体温だけは何よりも安らぐ。
 あまりにも優しく、あまりにも落ち着く、温もりだった。
 その感覚をじっくりと改めて、目の端に自然と涙が滲む。アッシュには気付かれないよう、その涙を零さないよう、唇の内側を噛んで留まらせる。
「ねぇ……さっきの――」
 耳元で囁かれる彼の言葉に、ジズは無言で続きを待つ。アッシュはジズの両肩に手を置くと、真正面から瞳を覗き込むようにして、

「“好きだ”って言葉、本心と受け取っていいんスよね?」

 その、問い掛けではなく確認に、ジズは一瞬瞳を見開き、その後、こくりと頷いた。
「でも、心配しないで下さい。貴方が煙たく思うなら、私はすぐに消えますから……」
 呟くジズに、アッシュは訝しげに眉を寄せる。
「……え?」
「いつからだったのか解りません。でも……気がついたら、貴方と一緒に居る事が全部嫌じゃなかった。いつの間にか……貴方に会えない時間が酷く淋しく思えていた」
 最初は構わないよう努めていたが、いつしか彼に惹かれ始めた自分が居た。彼の言葉が本当に真実なのか自信はなかった。むしろ、嘘だという確率の方が明らかに高い。こんな死人を、本気で好きになってくれる存在などある筈がないのだから。冗談の相手に対して、自分は本気になってしまった。できる事なら彼と共にこれからの道を歩んでいきたいと思った。しかし、それは自分のわがままだ。冗談の相手を無理矢理引き留めようだなんて、見苦しいにも程がある。
「……だから私は、貴方に自分の本心を伝えたかっただけです。ただ聞いてほしかっただけですから、貴方に、何か求めはしませ」
 そこから先の言葉は、アッシュの唇によって塞がれてしまった。
 瞳を見開くジズを、彼はそのまま抱き寄せながら言葉を紡ぐ。
「煙たく思うなんてそんな事、ある筈ないじゃないっスか……」
 しっかりと筋肉のついた褐色の腕が僅かに震えているのが、ジズにはしっかりと伝わっていた。開いた窓から吹き込む風が、白いカーテンを泳がせる。
「嬉しい……やっと……聞かせてくれた………」
 しっかりとジズを胸に抱き、その感触を味わうように瞼を閉じた。
抱きしめる度に、ジズの華奢な身体を実感する。生前、七百年前から変わらないという、細く、少し力を入れたら壊れてしまいそうなその体を、アッシュは安心感と幸福と共に抱きしめた。
「有難うジズ。俺も大好きっスよ」
 色違いの両目から、大粒の涙が零れる。
「……本……当……に………?」
 震える声で呟くジズに、アッシュは一旦顔が見えるように肩に手をやると、
「何言ってるんスか? 当たり前っスよ。好きって何度も言ってきたじゃないっスか。今まで俺が言ってきた言葉は、全部本気っスよ!」
 胸が詰まった。
 あまりにも当たり前に、いつものパッと明るくなるような笑顔を浮かべてそう言うアッシュ。これまで不安に思っていた事全て、彼のいつもの笑顔が洗い流してしまった。
「――――……っ……恐……かった………」
 膝の上に置いたジズの手が、次いで肩が、小刻みに震える。
「貴方に好きだと伝えた時、拒絶されたらどうしようって……。だって仕方ないじゃないですか。誰がこんな罪人を本気で愛するって言うんです!?」
 絞り出すように叫ぶジズ。自分の気持ちに気付いてから、ずっと彼を縛り続けてきた不安。常識で考えれば当たり前すぎたのだ。既に死した罪人を本気で愛してくれる相手が、この世界に居るとは到底思えなかった。俯き、涙の雫を零しながら震える声で言葉を紡ぐ。
「今まで好きだと言っていたのは全部嘘で、本当は私なんか微塵も気にかけてなんかいなかったらって……」
 そう思うと怖くて、自分の気持ちに気付いていないフリをした。すぐに蓋をして、鍵を掛けて、心の奥底に沈めた自分。
 何事も無かったかのように、忘れようと。

 でも――

  声を聞く度 触れる度
    鍵が外れて蓋が開いて

  溢れてしまう

     駄目なのに

  ずっと昔に思い知った筈なのに

 私なんかに本気になってくれる人なんて――!!

「もういいよ」
 顔を覆ったジズを、アッシュは言葉と共に自分の胸に抱きこんだ。開け放たれた窓から流れ込む風がカーテンを柔らかく踊らせ、ジズの黒髪を、アッシュの緑青の髪を靡かせる。窓の向こうで腕を伸ばす木々から、小さな小鳥が空へ羽ばたいた。
「苦しんできたんだね。ずっと……。独りで、頑張ってきたんだね。もういいんだよジズ」
 力強く、それでいてどこまでも優しい声が、ジズの心に浸透していく。しっかりと筋肉のついた胸に顔を埋め、じんわりと伝わる彼の温かな体温に包まれる。
「もう、休んでいいんだ。信じて。俺は裏切ったりしないから。本気でジズを愛してる。信じて」
 溢れる涙は、彼の服に吸い込まれて消える。胸の奥から溢れるのは、幸福感と不安。それは涙という形になって表に現れる。
「私は……あの時……」
 彼の胸の中で、震える声で言葉を紡ぐ。
「レリスが捕えられているのを見た時……すぐに思いました。“今この右目を晒せば、彼らは私を魔女扱いするだろう”と……。そうすれば、その隙に彼女は逃げられるだろうと。だから……すぐに包帯を外して、私が魔女だと言おうとした」
 そう。あの時自分は真っ先にそう思った。自分が彼女の身代りになれば彼女は助かるだろうと。しかし――

 “そいつが本当の魔女よ!!”

「しかし、それより早く……私と目が合った瞬間に何の躊躇いもなく、ああ叫んだ彼女に……裏切られたのだと理性が理解した瞬間に……私はもう何も言えなくなった」
 傭兵の腕を振りほどき、必死の形相で自分を指差してその言葉を吐きだした、かつての恋人。彼女のその一言が、自分の心の中に有った幸せも思い出も、彼女に対する信念も全て、酷く大きな音を立てて壊していってしまったのだ。七百年たった今でもあの時の事を思い出すと体が恐怖で震える。あの時の絶望を思い出すと――壊れたくなる……
「だからもう……嫌なんです………誰かに裏切られるのは!! またあの気持ちを味わうのは!!!」
「裏切らない」
 絞り出すように叫んだジズを、アッシュは更にしっかりと抱きしめた。瞳を見開く彼を力強く抱きしめたまま、アッシュは続ける。
「裏切らないよ俺は絶対。何があっても、ジズを裏切ったりしない。だって俺……」
 胸に抱いたジズから表情は窺えないが、アッシュの声に一切の迷いはなかった。
「こんなに誰かを好きになったの、ジズが初めてなんだよ。こんなにどうしようもなく人を好きになったのは、初めてだ」
 本人の意思など無関係に、勝手に溢れる、大粒の涙。
 誰かの前でこんなに泣くようになったのは、間違いなくアッシュに出会ってからだった。
「約束する。裏切らないって。もう、絶対ジズにあんな思いはさせない。だから……俺を信じて」
 優しくて、安心する声と体温。この腕の中を、自分の居場所と思ってしまって本当にいいのか自信がなかった。しかしそんな不安は、少しずつ心の中から溶け出していく。
「……私が貴方を……好きでいる事は………迷惑ではないのですか?」
 胸から顔を離し、彼と向き合って瞳に涙を湛えたまま訊ねるジズに、アッシュは一瞬瞳を見開いてから、
「何言ってんだよ。好きって言ってもらえた時……俺、気絶しそうなくらい嬉しかったんだぜ?」
 破顔で、そう答えた。今更何を言うのかと、当たり前ではないかと言うような笑みに、胸が詰まる。
 どうしてこんなにも優しい存在が、罪を犯した自分のすぐ傍で笑っていてくれるのだろう。信じられなくて、信じるのがまだ怖くて、自分に対する言い訳のように言葉を探してしまう。
「……けれど……けれど貴方は………私の右目を受け入れた。私の過去を知っても軽蔑しなかった! それだけで、充分なのに」
「これが俺の本心だよ」
 そんな無意味な言い訳を、彼はやんわりと抑えてしまう。
「ジズがもし、自分で自分を許せないと言うのなら、ジズが過去にした事も何もかも、俺が全部許してあげる。それに俺は――」
 そこまで言って、ジズの顎に手をかけ、指で唇を撫でた。そのまま頬を撫でて、右顔にかかった長い前髪を耳にかける。

「ジズの、この深紅の瞳、凄く好きだ」

 そうして露出した右目を見ながら、あまりにも優しく、あまりにも温かく微笑んでくれた。左右色違いの両目から、涙が零れる。
 この七百年間、未だかつて、この血色の右目を“好きだ”と言ってくれた人が居ただろうか?
 両親でさえも怯え、人前に晒すことを禁じた瞳。
 かつての恋人も恐怖し、魔女扱いを受けるまでになった異様な眼球。
 今では、自分が犯した罪の結晶。
 その瞳を、綺麗だと、好きだと、彼は言った。
 何の躊躇もなく、当たり前のように、素直にそう言って微笑んだ。
 “血の色”ではなく、“宝石のようだ”と言ってくれた、初めての存在。生きていた頃は、何故生まれてきてしまったのかと悩み、特に幼少の頃は何度も右目を抉ろうかと考えた。死ぬ直前の惨劇で、何故こうなる前に右目を抉ってしまわなかったのだろうと激しく後悔した。
 そんな思いを胸に抱いて彷徨ってきた七百年の月日の中で、今初めて、“抉ってしまわなくて良かった”と思う事ができた。
 彼に出会ったお陰で、そう思えた。
 これから先、彼を――アッシュを信じなくて、一体何をしようと言うのだろう?

 嗚呼、神よ。
 罪人にも、こうして情けをかけて下さったのか。
 人殺しに加え、禁断の契約を結び悪魔と取引をした大罪を背負う自分にも、神は慈愛を注いで下さったのか。
 アッシュという存在と、巡り合わせて下さったのか。
 それならば、神の慈愛の、何と温かいことか。
 神の懐の、何と広いことか。
 自分の罪の、全てを許して下さった訳ではないだろう。
 しかし、もう充分だ。
 充分すぎる慈愛を、神は与えて下さった。
 これを受けずに放棄するなど、それこそこれ以上ない程の大罪ではないか。

「――私………」
 か細く、引き絞るような声で言葉を紡ぐ。そんなジズに、アッシュは柔らかな微笑を浮かべたまま、言葉の続きを待った。

「信じ……ます………貴方を……信じます!」

 やっとの思いで吐き出した言葉。
 様々な決意と共に、涙と共に、吐き出した言葉。
 この一言を口にするのに、これまでどれだけ回り道をしてきたのだろう。
 ジズの言葉をしっかりと受け止めながら、アッシュは彼を再び抱き寄せる。
 重なる唇の温度を感じながら、これまでの長い回り道を思い起こす。
 七百年の昔の記憶。夕闇に沈む水の都。薄暗い小路を死に物狂いで走ったあの日。ランプの橙の灯り、徐々に青白くなる三人の肌、赤黒く汚れていく長い金髪――
 過去のフィルムはジズの中で廻り、そして今この状態になるまでの道のりを辿る。
 窓の外で小鳥が歌い、木の葉と風がそれに合わせて音色を奏でる。柔らかく差し込む日差しはどこまでも優しく、まるで祝福するかのように二人を包んだ。

「――愛してるよ」
「……はい。私もです」

 言葉は互いの鼓膜をゆるがせ、幸福を伴いながら脳へと巡る。
 数分、そのままただ抱き合っていた。じんわりと幸せを味わいながら、互いの存在を確認する。愛しい人の形、重さ、熱――
 錯覚だったのかもしれないが、ジズは本来体温というものを持たない筈なのに、その時は不思議と、アッシュは彼の温もりを感じた気がした。
 どれくらいの時間が経過しただろう。空はやがて黄昏に変わり、アッシュの部屋を西日が茜色に染め上げた。
「――――そろそろ、スマイルとユーリさんに顔を出さなければいけませんね」
「……そっスね」
 目が覚めてからもう大分経ったが、まだ二人は自分が目覚めた事を知らされていない。特にスマイルは、まだ寝込んでいるのかと心配しているだろう。
「じゃ、ちょっと俺知らせてくるっスね」
 言いながら部屋を後にしようとするアッシュに、ジズが慌てて声を掛ける。
「あの、すみませんその前に、包帯か何か、お借りできますか?」
「え?」
「……仮面が無いので……スマイルなら、私が目覚めたと聞いたら部屋に飛び込んでくると思うので……」
「ああ! それもそうっスね! ごめんごめん!」
 うっかりしていたアッシュは苦笑しながら頭をかく。その様を見て、ジズも自然と笑みが零れる。アッシュは救急箱から包帯を取り出そうとして、一瞬考える素振りを見せると、
「……じゃあ……ちょっとさっきの教会行って取ってくるっスよ! さっきは拾う暇もなく飛び出してきたから」
「えぇ!? そんな結構ですよわざわざ……!」
「いやいや、やっぱりジズにはあの仮面がなきゃ。二人も気にするかもしれないし……すぐそこだから大丈夫っスよ。ちょっとだけ待っていて下さいっス」
 そう言って笑う彼に、申し訳ないと思ったがその好意は嬉しかったので、大人しく礼を言った。もう夕焼け空だが、あの教会に行って戻ってくるまでは、まだ真っ暗にはならないだろう。そう思いながら窓に目を向けた。と――
「アッシュさん!」
「え?」
 既にドアに向っていたアッシュが振り返ると、ジズが瞳を見開いて窓辺を指差していた。訝しみながら窓辺を覗き込み、驚愕した。
 窓辺の、ジズが指さしている先には、先ほど教会に置いてきた筈の、白い半仮面が鎮座していた。一体いつからそこに置かれていたのか。少なくとも、窓辺を最後に見た時には間違いなく何も無かった。
 そっと仮面を手に取り、間違いなく自分の物である事を確認する。

「……どうして――――?」

 困惑の表情を浮かべながら、二人は首を傾げた。


 ユーリの城から少し離れた場所に、少し古びた教会がある。その教会と城は周囲に林立する木々より少し背が高いので、頂上からは互いの建物を見る事ができた。
 古びて、どこか寂れた雰囲気を醸し出す教会の屋根の上に、白い紳士服を纏った男が立っていた。目線の先には、今ジズが居るであろう城が見える。彼はその深紅の瞳を悲しげに細めて、城を眺めている。
〈――コレデ私ノ……元来ノ存在意義ハ………〉
 その先の言葉は、胸が詰まって発せない。元々自分にだけ聞こえる程度の音量で呟いたので、誰に言うでもなかったのだが――
 幽体化したまま、その表情を悲痛に歪める。何かを諦めたような、何かに捨てられたような、そんな悲しく寂しい表情をその顔に浮かべた。
 不意に、カクンと体が仰け反った。そのまま屋根から落下する。
 失神していた。彼もまた、先ほどの分裂で自身の霊力を殆ど削られてしまっていた。それでも今まで倒れずにいられたのは、感情の凝縮体が故の強さだろう。
 生身の人間が落下するのに比べればゆっくりとだが、それでも彼は落ちていた。普段浮かんでいようと思えばいくらでも浮かんでいられるが、思わなければ地に落ちる。失神したまま、真っ逆さまに落下する姿は、さながら地獄に堕ちていく堕天使のようだった。
 
 しかしそんな彼を、突如飛び出してきた赤い影が空中で受け止めた。

 その赤い影も霊なのだろう。でなければ幽体化した彼に触れる事はできない筈だ。
 赤いマントを纏った影は白服の彼を横抱きにしたまま、じっとその顔を見つめる。
 閉じられた瞼の長い金色のまつ毛は一本一本が繊細で、その上を同じく金色の毛髪が流れている。ぐったりと手足を空中に投げ出し失神する彼に、赤い影は、囁くように呟いた。

 〈――――お前を待っていた……〉

 
 暫くして目を覚ましたラズは、教会の屋根から落ちた筈なのに、何故か教会からは大分離れた森の中の、一本の木を背にして腰かけていた。
 自分が何故そのような状態にあるのか、その時はどんなに思考を巡らせても、ついに思い至る事は無かった。


‐END‐



三部作、これでやっと終わりました;
まぁ三部作って言っても、ジズとアッシュが付き合うまでの成り行きを過去話とかラズとかを交えながら綴ってっただけですが;まぁ、設定話と思ってお読み頂ければと;にしては長すぎる;;すみません;
でもって、最後にチラリズムした赤い人についてですが……ごめんなさい。本気で話に出す気満々ですこの人。わざわざ名前出さなくても誰だかは日記をご覧になってる方なら即で解ったと思いますが;って事で勿論青い人も出てきますよ。いつかは解らないけど;
さー次からやっと普通に書ける〜って……まだなんですけどね;
次はシャルロットの設定話だったりする。早く書きたくてうずうずしてたりする。あは。
ここまで読んで下さって有難うございました!