「……お前」
何よりもまず驚愕して、アッシュはその人物へ振り返る。長身に茶色のコートを着た、少しオレンジがかった赤い髪の――自分とよく似た顔。
「赫……」
「はっ! 随分派手に食事したみてぇじゃねぇか! 羨ましい限りだな!」
そう嗤う赫の首もとと袖口は、血で汚れていた。アッシュに比べれば極少量の――鳥か鼠あたりの動物を補食した跡が残っていた。
「………っ」
「しかも相手はラズか。俺も食った事あるけどさ、あいつの肉は旨いよなぁ」
「なっ!? ――黙れよ……」
愉しげに吐かれた言葉に驚愕し、ついで、俯いて強く拳を握る。肉の味などもう思い出したくないのだ。そして赫の金色の目を今、自分は直視する事ができなかった。
人狼という身を自分と等しく――いや、それ以上によく理解し、受け入れている相手の目。その目は愉しげでいて、とても冷たく見えた。
見たくない。聞きたくない。思い出したくない。
「ジズと同じ顔だから更に良かったか?」
「っ」
しかし赫はその心中を知ってか知らずか、アッシュの不安定な精神を更に揺さぶる。愉しげな声は神経を逆撫でし、無視しようとすればする程意識してしまう。
そうして強く奥歯を噛みしめて耐える彼へ、
「それともジズも食った後で味比べした訳か?」
せせら嗤いながら、そう言った。
「黙れ!」
耐えきれず、怒鳴ると同時に立ち上がり、真正面から赫を鋭く睨み付ける。
「何だ。図星か?」
「この……!」
険を露わにするアッシュに、赫は酷く冷静な顔で一つ鼻を鳴らしてから、
「――だからてめぇは偽善者だっつってんだよ」
酷く汚らわしい物を見るような目で見下し、そう言葉を吐いた。
「普段からお優しいイイ子ちゃん気取りやがって。結局はただの野犬じゃねぇか。獣の血見ないふりして押し込んでっから、そーやって制御できなくなんだろが。下衆」
あまりにも冷静に、淡々と吐かれる言葉。
「……っ」
憤りと、弱り切った心を抉られる痛みに息を呑み、体を震わせた。そんなアッシュに赫は続ける。
「狼男のくせに獣の本性なんか知りませんってふりして、いざ暴走したら“ありえない”って面。――反吐が出るぜ」
「っの野郎!!」
触れられたくない部分を鷲づかみにされた痛みと怒りを堪えきれず、アッシュは一気に跳躍して赫の胸倉を掴み、怒りの形相を向けた。
だが、
「おいおいちょっと待てよ。俺は今一つでも、“間違った事”を言ったか?」
おどけた口調で世にも愉しそうに言われたその言葉に、動きが止まった。
「…………っ」
強く歯噛みし、困惑と絶望と憤怒をない交ぜにしたような色を浮かべるアッシュを、赫は鼻で嗤う。
「そうだよなあ? 反論も言い訳もある筈ないよなあ? ジズを喰ったのもラズを喰ったのも、他の誰でもないてめぇだもんなあ!!」
言い終わると同時に幾分か力の抜けたアッシュの手を弾き、鳩尾を思い切り殴りつけた。
「―――がっ!!」
一瞬視界が明滅した。
後ろに数歩分飛んで、血と臓物で汚れた地面に膝を着く。同じ人狼でなければ数メートル吹き飛んだであろう力による痛みに、顔を歪めて咳き込んだ。鈍い痛みが臓器を圧迫する。
「調子に乗ってんじゃねぇよ。てめぇのヘラヘラした偽善者面見ると虫酸が走るんだよ!」
風を切る音。それと同時に一瞬で踏み込まれ、腹に飛んだ蹴りを反射的に腕で受ける。ぎし、と強い痛みが骨に響いた。
「くっ……!」
「いいザマじゃねえか! 何もかんもてめぇが招いた結果だよなあ! 言い訳なんかできねぇって一番よく解ってるよなあ!? 思い知れよ。後悔して絶望して、てめぇの価値の無さをもっともっと思い知れよ!!」
浴びせられる、嫌悪と憎悪に塗れた罵声。
「っ!」
頭上から伸びた手に、緑の髪を乱暴に掴まれて、そのまま右頬を殴られた。唇と頬の内側の肉が切れて、口内に血の味が広がる。痛みと、酷く不快な味に顔を歪めるアッシュ。
夜が明けた今では、この味はただ気持ち悪く感じるだけだ。
濃い、鉄の味。
だが、昨夜の自分は――
髪を引き上げられ強引に顔を向けられて、彼の目と赫の冷たい金色の目が合った。
「――這いつくばってのたうち回って泣き狂ったら―――あとは死ね」
低く、静かに吐かれた言葉はアッシュの脳に浸透していく。
次の瞬間だめ押しに顔を横から膝蹴りにされて、地面に倒れた。
そんな彼を一瞥して鼻を鳴らし、赫はアッシュが起き上がる前に、来た道を戻っていった。
朝の森はまた、元の静けさに包まれる。自分以外誰もいなくなった、惨劇の冷たさと日の暖かさが不協和音となって神経を揺さぶる、歪な空間。
「…………くぅ」
しばしの後、何とか上体を起こして片膝を着く。酷い痛みに顔が歪んだ。耳に圧力がかかって片方聞こえにくい。すぐに治るだろうが、地に膝を着いた状態から立ち上がる事はできなかった。
暴力による痛みではなく、心の痛みによって。
赫の言葉の一つ一つが、アッシュの胸を抉っていた。
暴言にまみれてはいたが――正論だ、と思った。
「………畜生……」
痛みと絶望に呻いた。
どうすればいい?
何をすればいい?
赫の言う通りに死ぬなんてできる筈ない。そんな事をしても無意味だ。
ならどうすれば?
謝る?
ラズとジズに?
何と言って謝るのだ? 謝ったところでどうなる?
「…………っ」
謝罪して許されるような問題ではない。土下座して謝ったところで、ただの自己満足以外の何物でもない。
だが、
「それでも……謝るくらいしか………できないじゃないか……」
じわりと涙が滲んだ。
拳を握り、自責の念でもって地面へ振り下ろす。鈍い音と鈍い痛みが神経を伝わってくるが、心の痛みは少しも紛れてくれなかった。
折角、和解できたと思ったのに、もうそんな事を言っていられない。嫌われる以前の問題だ。
ジズにも、次会った時どんな顔をすればいいか解らない。
なんて無力。
間違いであってほしい、嘘であってほしいと渇望しても、その場に転がる血まみれの帽子と汚れた地面に嫌でも思い知らされる。
「………」
悔恨。
森の一角に、ぽつんと一人。
高く昇った太陽が、血に汚れた地面にアッシュの影を落とした。
その中で絶望し苦悩し途方に暮れて、そっと、転がる帽子に手を伸ばして――
その手の先で、突然帽子は“青い炎”に包まれた。
「え!?」
反射で手を引っ込めて驚愕するアッシュの前で、帽子は瞬く間に燃え尽きて灰と化し、風に散る。
「なっ――」
次いで、自分の足下の地面がみるみるうちに炎に舐められていった。
勢いよく飛び退くと、炎は血が染みた範囲を綺麗に呑み込み、散らばる肉片と汚れた雑草と土を燃やし、すぐに焼け焦げた地面に変えた。
「………っ」
言葉を失った。
訳がわからず、辺りの熱気に顔を歪め、汗を浮かべる。血の跡はもうどこにも無い。
昨夜有った惨劇の痕跡を、炎は全て焼き消してしまった。
何で……?
風に乗るのはもう血の臭いではなく、肉と草と土の焦げた臭い。状況を理解できず混乱する彼の前に、
「っ!!」
ふわりと、白い服を着た金髪の青年が降り立った。
「―――――――ラズ……」
瞳を見開き、小さく震えた声で名を呼ぶ。呼ばれた彼は静かに目を伏せて、
「――後始末ヲシニ来タダケタ」
そう言った。
「……え?」
驚愕して一語を発するアッシュに、ラズは凛と続ける。
「コレデ昨夜ノ証拠ハ何モ無イ」
「ラズ!? 俺――」
アッシュの言葉を遮るように、彼は更に言葉を綴る。
「オ前ガ謝ル必要ハ無イゾ。ヤロウト思エバ反撃デキタモノヲ、ヤラナカッタノハ私ダ。オ前ガ気ニ病ム必要ハ皆無ダ」
「そん――」
とても納得できない言い分に、反論すべく口を開くアッシュに対し、
「昨夜ハ、“何モ無カッタ”」
真っ直ぐ、静かに、絶対的に、言い放った。
「…………ラズ」
瞳を見開き、しばし硬直する。
彼の言葉には、どんな反論も赦さない威圧があった。紅い左目は冷たく自分を見つめ、己の強い意志を相手に突き刺すような眼光を放っている。しかしそれは烈しい威圧ではなく、静かで冷たく、鋭い針のようだった。
しかし、仮面に隠された右目の光は伺えない。
その仮面の内の素顔は今、どのような色を浮かべているのだろうか。
太陽が地面に落とす影は、二つ。しかし片方は酷く儚く、か細く見えた。心も体もズタズタに傷付いたのは、ラズだ。しかし彼は尚続ける。
「何モ無カッタ。ソウイウ事ニシロ。ソノ方ガ互イノ為ダ」
「そんなの!」
喰い下がるアッシュ。納得できる筈がない。
「昨日の事を無かった事になんて!! だって俺はお前を――」
「忘レロ!!」
鋭く放たれた言葉に、ビクリと肩を震わせる。
「私達ハ昨夜、出会ワナカッタ。ソレダケダ」
「ラズ……!」
「無カッタンダ。何モ。ダカラコレ以上、オ前モ、ジズモ……傷付ケサセルナ」
「っ!!」
言い終わると同時に、ラズは煙のように空気に融けて、アッシュの前から姿を消した。
「………ラズ……」
彼が消えたその空間をただ見つめ続けた。相手を射すくめるような眼光を向けていたラズは、消える間際、泣き出しそうな表情になった。ほんの一瞬だったが、その顔はアッシュの網膜に焼き付いて離れない。
きっとあの顔こそが今の彼の、素顔だ。
謝れなかった。意味がないとしても、自分ができる事はそれしかなかった。
拒否し、全てを“無かった事”にすると言ったラズ。
嘘なら良かった、無かった事なら良かったと渇望した。しかしそれは自分だけの都合だ。
あれほどの傷を体にも心にも刻みつけたのに、それを無かった事になど――ラズに対する冒涜だ。
けれども彼が言った。被害者である彼がそう言ったのだ。
不安と焦燥がこみ上げ、息苦しささえ感じる。目覚めた時暖かいと感じた太陽はもう、ただただ無言で体を熱く詰るのみ。
彼の言葉を受け入れていい筈がない。自分の罪から目を逸らしていい筈がない。
だがラズは、アッシュとジズがこれ以上この問題で傷付かないよう、自ら全てを無かった事にと決断した。
今回誰よりも傷ついたのは、ラズ自身だと言うのに――
「――――――」
俯き、唇を噛んだ。
決着など、何も着いていない。
このまま終わりにして、何も無かったように日常に戻っていい筈がない。
けれど自分はまず――何をすれば………?
〈何を、したいですか?〉
耳からでなく、脳に直接響いてきた、ラズと同じその声。
はっとして顔を上げると、つい先程までラズが居た場所に、ラズと同じ顔で黒髪の霊がいた。
「……ジズ……」
「――貴方は、何をしたいのですか?」
彼は幽体化を解き、真っ直ぐに自分を見つめて問う。
「な……何で……ジズ………」
動揺する。どんな顔をして会えばいいと困惑していた矢先、ラズに続いての登場。
どこまでも澄んでいるような蒼の瞳は、普段なら真正面から見つめ返せるのに、今は小さな恐怖すら感じた。最愛の恋人は、今自分の事をどう想っているのだろう。本人を目の前にすると不安しか湧いてこない。
「――ラズを一人で帰らせるのが嫌だったので、ここまで送ってきたんです」
冷たい無表情で、ただ淡々と言葉を綴る恋人。
「…………ジズ……俺………」
「どうしました? その傷は」
「え? あ……」
口を開いたところで、静かに右頬の殴られた痕を指摘され、言いよどむ。先程のラズは、ジズがアッシュを攻撃した際の傷だろうと何も触れなかったが、そうではない。
だが真相を言うのは躊躇われて、しばし口をつぐんだ。
「…………その……何でも、ない……ちょっと……色々、あって……」
「そうですか」
ジズはただ目を伏せてそう応えただけで、それ以上を追求しようとはしなかった。瞬きと共に上下する長い睫毛が、淡緑色の頬に影を落とす。ゆるやかに吹く風に流れる黒髪は、ジズの美貌を際立たせる。しかし今はその美しい貌が、怖ろしく感じた。
ラズと同じだがどこか違う、綺麗な、冷たい、何を考えているか窺えない表情――
アッシュはただ、不安と苦悶に顔を歪めるしかなかった。どんな表情で接すれば良いか解らない。
だがジズに対してやるべき事は解っていた。ただの自己満足でも、許してもらえなくても、自分はそれ以外に何もできないのだから。先刻ラズにはできなかったが、せめて彼には――
「ジズ……昨日――」
「覚えているんですね。全て」
謝罪の言葉を遮るように言い放たれて、息を呑む。
彼の声は凛として真っ直ぐで、一切の躊躇もなく聞こえた。
「自分が何をしたか。何を言ったか。貴方はちゃんと覚えているのですね」
目を伏せてそう口にするジズ。
しばしの沈黙の後、
「………ああ。覚えてるよ」
本当に辛そうに顔を歪めて答えたアッシュに、ジズは、すっと顔を上げ、何処までも深い深海のような瞳で彼を見つめ、
ぱんっ! と左の頬を叩いた。
「っ!」
じんと染みる痛みと驚愕で瞳を見開くアッシュに、ジズは叩いた掌を硬く握って、ぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。
そんな彼に更に驚愕して名を呼ぼうとした瞬間、強く強く、抱きしめられた。
「――――ジ……」
「………貴方は………しては、ならない事を、しましたっ」
「――うん」
「言っては、ならない事、を、言いましたっ」
「………うん」
嗚咽で喉が詰まりそうになるのを堪え、懸命に言葉を繋げる。これまで押し込めていた想いが決壊していた。毅然とした態度を取ったのは、アッシュが確かに昨夜の行いを記憶し、認めているかどうかを見定めたかったから。
最愛の人と自分の半身の間にあった事件を目の当たりにして、ジズが傷付いていない筈がなかった。
「でも…………今のアッシュも……沢山、傷ついているでしょうっ」
「――っ!」
しかし彼はただ責めるのみでなく、そう思いやりの言葉を叫んだ。
「解ってます……“あの日”もそうだったから! 正気に戻った貴方がどれほど自分を責めるか知ってます!」
乾いた血でごわごわになった服に構わず、アッシュの胸に顔をうずめ、背に回した手で彼の服を強く握って、ジズは嗚咽混じりに言葉を続ける。
「ラズは……貴方を恨んでない……責めていない……寧ろ抵抗しなかった自分を責めた!」
一言一言、絞り出すように、彼は言う。
「だから……私が代わりに、貴方を怒ります! そしてラズの望みだから、これ以上は責めない! 彼は貴方を……大切だと言ったから!!」
その言葉に、アッシュの目から涙が零れた。
ラズはジズの家を出る前の会話で、彼に言っていたのだ。
『アイツハ、ジズニトッテモ、私ニトッテモ大切ダカラ……二人共護ッテイキタイカラ……モウ、コレ以上傷ツカナイデクレ』
それを聞いた時、ジズは心から嬉しく、そして悲しかった。
「でも……だからこそ……このまま彼の言うように、“無かった事”になんかしてはいけない!」
「……うん。そうだよな……っ」
抱き返し、腕に力を込める。
ラズがどんな想いでそう彼に言ったか。ジズがどんな想いでその言葉を聞いたか。自分がどれほど、愚かしかったのかを、ジズごと全て抱き留めるように。
「ラズは優しい……優しすぎて自分を傷付ける! このまま傷口を放置させてはいけないんです!」
必死に訴えるジズの髪を、そっと撫でた。
「うん…………でも、ジズも……」
「え……」
「ジズも……凄く、優しいから……」
硬く、強く、抱きしめる。
「ごめん――本当にごめん! ジズにも、謝らなきゃいけない。謝って済む問題じゃないけど、でも謝らなきゃいけない! ジズを、裏切るような事をしたんだからっ」
自ら口にするのも苦しい言葉。残酷な現実。しかし目を逸らせば自分達はじわりじわりと罪の意識に蝕まれていくだろう。
そんなのは、おかしい。
「…………はい……そうです。でも、もう、私は大丈夫です。貴方を信じています。だから、怒れたんですよ……」
「―――あり、が、とう……!」
「アッシュ……」
胸から顔をあげて、問う。
「貴方は、何をしたいですか?」
最初と同じ質問を、再び。今度は目を逸らす事なく、その蒼い瞳と、仮面の奥の紅い瞳を見返した。
「“貴方”の意志は、どう告げていますか?」
「―――ラズに、ちゃんと、謝りたい」
彼はそう、答えた。
しかし、そもそも何が正しくて何が間違いなのかという答えは出せない。ラズの意志を尊重する事が最も平和かもしれないし、逆かもしれない。自分には解らない。だが、
「謝る必要なんか無いって言ってくれたけど、それじゃ駄目だ。このまま無かった事にして有耶無耶になんかしちゃ駄目だ」
自分の意志は、こう告げている。
しっかりと、決意を持った顔で、アッシュは言う。
「昨日――月が覗く前……和解したいって言ったら、ラズ、構わないって言ってくれたんだ。初めて笑って、名前呼んでくれたんだっ」
こみ上げてくる想い。脳裏に蘇るあの表情。
ほっとした。子供がずっと言い出せなかった罪を告白して、大人に許されたような、ほっとする感情。
彼は笑った。優しく笑った。ジズそっくりの、しかし紛れもない“ラズの”笑顔で。
「嬉しかった。凄く嬉しかった。なのにその直後にあんな事した。俺は偽善者かもしれない。狼男としての“獣の血”にもちゃんと向き合わなくちゃいけない」
ジズはただ黙って、彼の言葉を聞く。
「ただの自己満足でも、謝りたい。このままにしたくない。昨日笑ってくれたラズを、無かった事にしたくない! 俺にはもう笑ってくれないだろうけど、それでも、ちゃんと区切りを着けたい! 俺が心底嫌われてもいいから、ちゃんとラズも悩み続けなくていいように区切りを着けたい! 無かった事にしようなんて、そんなの駄目だ!」
「――はい。そうですね」
涙で濡れた顔で微笑み、ジズは頷く。
「でも……“無かった事にする”って決めたラズの意志を……無視することに、なるよな……」
結局何が正解なのかは、どちらかを実行してみなければ解らないのだろう。もしもこの選択が間違いならという想いが湧き上がる。実行するのは、怖い。だがこのまま日常に戻るのはもっと怖い。
「俺がそうする事で、ラズを更に傷付けてしまったら……もう……」
俯き、そう弱々しく呟くアッシュの頬に手を添えて、ジズは静かに言葉を綴った。
「“貴方”がそうしたいと望むなら、それが答えです」
真っ直ぐ、彼はそう言う。
「――ジズ……」
「彼が無かった事にしようとしているのは、私達がこれ以上悩んで傷つかないようにです。
でもこれでは、ラズの心の傷は癒えないまま。どうしたって、忘れられる訳ないんですもの」
「うん」
ラズの事を誰より身近に感じる事ができるのは、半身であるジズだ。
彼の痛みを最も深く共有できる相手。
ジズの瞳に迷いは無かった。
「私も、一緒に行きます。彼は私達の幸せを望んでいる。だから、私達が幸せに日常を送れるように、決着を着けに行きましょう」
ジズの言葉に、迷いは無かった。
「……うんっ」
暫く、そのまま抱き合っていた。
互いに涙を止め、それが乾くまで、ずっと。
太陽の光は、暖かかった。空は青かった。木々は息づいていた。
自分達は小さな生き物だ。何人、何百人、何万人と泣き、絶望し、死んだところで、地球は少しも困らない。何も変わらず、朝が来て夜が来て、また朝がくる。そんな世界の中で生きている、小さな自分達。世界は変わらなくとも、自分達の中にそれぞれ小さな世界がある。その中で笑い、泣き、絶望し、希望を持ち、生きていく。それが生き物だ。飾る必要など何もない。そのままの状態で、ありのままの状態を受け入れて歩いていけばいい。ただそれだけなのだ。
だから、今は降り注ぐ太陽を、暖かいと感じるだけだ。
世界の中に佇む、小さな二人。ジズはもう“生”を手放してしまったけれど、自分はまだ生きている。
だったら、呆れられるくらいがむしゃらに、生きてやる。
暫く、時が流れてから、
「ラズの処に行く前に、頬の怪我、手当しましょうね」
「……そうっスね……ついでに、シャワー浴びて、服変えていかなきゃ……門前払いくらいそうだ……」
まだ少し影のさした笑みを儚げに浮かべて、そう言った。
*
「――オ前ノ方ガ早カッタカ……」
「ああ、明け方に戻った」
「今度ハドンナ迷惑ヲ被ッテキタノダ?」
「ふっ、まぁ色々とあったな。――で? お前はこんな時間まで何処に行っていた?」
「ジズ ノトコロニ。例ノ人形ノ私ノ担当分ガ完成シタノデ、ソノ報告ニ行ッタ」
「ほう」
「ソウシタラソノママ一緒ニ晩餐シテ行ケト言ウモノダカラ、折角ダカラ馳走ニナッテキタ」
「そうか」
「ソノママズルズルト泊マル事ニナッテナ。遅クナッテスマナイ」
「いや、お前が楽しんできたならいいさ。向こうに多少の着替えを置いているとこういう時に便利でいいな」
「全クダ」
屋敷に着き、優雅に珈琲を飲んでいた赤闇とそう会話を交わし、少し休むと言って寝室へ入った。
そこで、崩れるようにベッドへ沈み込む。体力は充分に回復していた。だが今の会話で、精神力を大いに消耗した気がする。
できうる限りいつも通りに、平静に、何も無かったように振る舞ったつもりだ。
赤闇は何も、勘づかなかっただろうか?
これまで隠し事があると、どんなに演技で誤魔化しても彼だけは鋭敏に察知してしまった。しかしラズは、今回だけはどうしても知られる訳にいかなかった。
“無かった事”にするのだから。
“何も無かった”のだから――
「……………………………」
本当は、顔を見た瞬間に膝が頽れそうだった。
胸が詰まりそうになった。
涙腺が灼熱しそうだった。
熱く重い圧迫感がせり上がり、胸の奥が苦しくて、目眩のような不安と安堵が同時に襲ってきた。彼の、あの絶対的なオーラに触れて、間違いなくそこにいると肌で感じて。
自分の存在意義がそこにいると、五感が伝えて、昨夜の出来事がフラッシュバックして視界が明滅した。
抱き締めて、泣いて、全てを吐き出してしまいたかった。
だが出来ない。する訳にいかない。
護らなければならないから。
「………………ハァー……」
長く深い息を吐く。
そして目を閉じ、今の自分の状態を再確認する。
大丈夫だ。気はしっかりしているし、これからどう振る舞っていくかも決めてある。
自分を見失ってはいない。だから、大丈夫だ。
「――で? 今度は何を隠している?」
「ッ!!!」
背後で声が鳴った瞬間、瞳を見開いて硬直した。
とっ、と静かに、うつ伏せになった顔の真横に彼の手が着いた。
「相手が“私”でなかったら、絶対に気付かなかっただろうな。多少気の毒でもあるが……自分の“存在意義”に嘘はつけんぞ? ラズ」
うつ伏せのまま拳を握り、強く歯がみした。そんなラズの髪を撫で、赤闇は更に言葉を綴る。
「言うがいい。ため込んでも身も心も負担がかさむだけだ。――何があった?」
「――言エナイ」
「ラズ」
「言ウ訳ニイカナイ」
「何故だ?」
「ッ」
そこでラズは勢いよく彼に向いた。覆い被さるようにしていた肩に手をかけ、素早く体を赤闇ごと起こして、それ以上の会話を遮るように、唇を合わせた。
赤闇の肩を掴んだ手は、震えていた。
「―――――――ラズ……」
「…………ッ」
上体を起こしてベッドの上に座った格好で、震える手を背に回し、赤闇をきつくきつくだきしめて胸に顔を埋める。彼の体、存在、重さ、熱、匂いを五感全てで確認するように。ラズはこれまでにない程切に、赤闇に縋っていた。
「ラズ」
「……………抱イテクレッ」
服を脱ぎ、肌を愛撫される刺激に反応する、負の感情の凝縮体。閉めたカーテンの隙間から漏れる日の光が、外界の時間を反映する。まだ日は高い。あの夜からほんの数時間しか経っていない。その現実から逃れるように、彼は縋り、溺れ、求めた。外の一切を遮断しようと。日の光も、熱も、物音からも逃げようとしているかのように。この薄暗い寝室だけが世界の全てだと、今だけはそう信じたかった。二人きりの空間だけ。それ以外を全て閉ざして――
しかし赤闇が彼を仰向けに押し倒し、その首に舌を這わせた時、快楽に対するものとは全く違う反応をした。
「――――」
「ラズ?」
ビクリと体を震わせ、息を呑んで硬直したかと思うと、その直後に決壊したように涙の雫をこぼした。
「……ラズ? どうした?」
「――――ッ――ッ」
優しく囁く赤闇に、ただ首を横に振る。
ラズにとってはこの状態は、まさに昨夜“彼”に襲われた瞬間を脳裏に蘇らせたのだ。
首に食い込む牙の感触。溢れる鮮血。嚥下し、舐め取られる音。そうして押し倒された地面から見上げた、“彼”と満月。
「………クッ」
思いだしてはいけない。泣いてはいけないのに、勝手に溢れる涙は止まらない。
昨夜は“何も無かった”のだ。
そんなラズに、赤闇は一旦身をおこし、
「――何故言えない? こんな状態のお前を、私が放っておける筈なかろうに」
優しく微笑んで涙で濡れた頬を撫でた。
「赤闇!」
しかしラズはその手を強く握りしめ、あまりにも悲痛な目を向けて、
「頼ム――コレ以上ハ何モ訊カナイデクレ!!!」
胸が張り裂けんばかりに、苦しく、切に、縋り、訴えるように、懇願するように、叫んだ。
その様に、赤闇はそれ以上を追求する事は、できなかった。
「――アッ! ハ……」
「……」
「クッ、ンンッ、ァアア!」
「苦しくは、ないか?」
「ッン、イイカラ……モットシテクレ!!」
熱く、激しく、ラズは赤闇を求めた。
薬も酒も入っていない、そのままの彼の意志で。
理性も羞恥も、何もかも投げだし、ただただ快楽に溺れるように。快楽に身を任せ、全てを忘れようと。
これは赤闇を利用しているだけだ、と理性は思った。彼の体を利用して、自分の胸のうちに広がる混沌とした思いを忘れようと。
寄せては返す快感で全てを塗り潰して、情欲に溺れて狂うように。
情けなく、穢らわしく、嫌らしい。しかしそう軽蔑する理性など、今のラズにとってあまりに些細なものだった。受け入れるには、余裕がなさ過ぎた。
「ラズ……」
「アアア! ァ! ゥンッ、ア!」
「愛しているぞ、ラズ……」
「ヒァ! ン! アンッ! ア、愛、シテル! 赤闇――セキオン!!」
何度も、何度も――
その鎖のように重い愛で、がんじがらめに縛り付けてほしい。
例え逃げだそうと思い立ったとしても、身動き一つできない程に。
抱かれた肌の、霊同士でなければ感じる事のできない温度。
確かに感じる、彼が触れている感覚に陶酔する。
この温もりに抱かれて、いっそ壊れてしまいたい。
私は、あまりに穢らわしい、
“罪の子”なのだ――
*
「………本当、に、ですか?」
「うん……やっぱり、自分で決着つけてくるっス」
そう言葉を交わしてジズと別れたアッシュは、今確かな決意をもった目で、ラズの屋敷を見上げていた。
思えば、場所は知っていたが、直接訪れるのは初めてだ。元は人形シャルロットが主人を待ち続けていた屋敷。外装は廃墟のような洋館が、緑髪の人狼の前に聳えていた。
ジズと同じで、わざと外見をそうしておいた方が色々と都合がいいのだろう。
「………………」
少し冷たくなってきた風に、唇を引き締める。
ラズは、ここに帰っている筈だ。彼に会うためだけにこの場に来た。
風呂に入り、石鹸で体を擦ったが、鋭敏な人狼の嗅覚はまだ、自分に染みついたままの血の臭いを感じ取ってしまう。その臭いに眉を顰め、歯噛みした。
絶対に、謝らなければならないのだ。
「…………ラズ」
自分が一人でやって来て、出てくれるだろうか、という不安がよぎったが、すぐに振り払った。
出てくれなかったら、出てきてもらうまで待とう、と覚悟する。
「――――すーー…………はーーー………」
深く深呼吸し、気持ちを落ち着ける。
大丈夫。大丈夫だ。
「……よし」
意を決し、毅然とした目を門に向けて、呼び鈴を鳴らした。
「―――ん?」
部屋に取り付けられている呼び鈴が揺れ、その音で赤闇は体を起こした。繰り返した情事で多少疲れてはいたが、動けない程ではない。小さなベルは数回揺れて、高い音を響かせた。
ラズは赤闇の隣で、静かな寝息をたてている。だんだんと日が傾き始めた頃の訪問だ。今日は特に来客の予定も無かった筈だ。アポイント無しでやって来るとしたら、ジズかセレーノあたりだろうか。
誰だ?
首を傾げる赤闇。しかしその少し後、寝室の扉の向こうからノックの後に青メバエの声がした。
「主ニ、お客様でス」
「――誰だ?」
眠っているラズに代わって応えると、意外な人物の名前が返ってきた。
「アッシュ様でス。お話ガ有ルと」
「ふむ……」
何故彼がやってくるのか理由はわからないが。害は無い相手なのでとりあえず通すように言った。そして、
「ラズ、起きろ。客人だ」
彼の頬をとんとんとたたく。
「…………ン」
「もウすぐイラっシャいマすので、おくツろギ下さい」
「あ……お構いなく」
青メバエに客間へ通され、革張りのソファーに腰を下ろして、珈琲を受け取りながら軽く頭を下げた。彼女はすぐに踵を返す。そして青いリボンを軽く揺らせながら、客間から出ていった。
見た目はジズのメバエと色違いだが、彼らに比べてラズのメバエは少し内面が違うようだ。よく言えば冷静、悪く言えば無愛想。
人形も主に似る、という事なのかと思いもしたが、失礼な考えだなとすぐに振り払った。屋敷の中まで上がったのは初めてなので、まだメバエ♀にしか会っていないが、他に男性型の方とハートやクローバー達もいるのだろう。一体彼らは自分達の主と、毎日どのように接して暮らしているのだろう。
玄関から廊下、客間へと歩いてみただけでも、家具や装飾がやはり何処かジズのそれと似ていると気付いた。二人の共通点を数えてみると愉しささえある。
珈琲の豊かな香りは、アッシュの緊張した精神を少しだけほぐしてくれた。そっと口に含み、舌の上で転がして味わう。舌から深い豆の旨みが広がり、芳醇な香りが鼻に抜けた。
成る程。あの珈琲党の主のおかげか、淹れ方が徹底されているようで、とても美味しい。紅茶ならどうなるかは解らないが、少なくとも珈琲の淹れ方だけに絞れば、ジズのメバエよりも上手だなと感じる。
――いつか、“彼”に美味しい珈琲を淹れてあげたいと思ったが、もう叶わないだろうなと苦笑した。
仕方ない。全て自分が引き起こした事だ。
『そうだよなあ? 反論も言い訳もある筈ないよなあ? ジズを喰ったのもラズを喰ったのも、他の誰でもないてめぇだもんなあ!!』
アイツの言葉が脳裏に蘇った途端、胸が締め付けられる心地がした。こんなに美味しい珈琲でも、やはり今の自分を完全に癒す事などできないのだ。この味わいも、きっと今日が最初で最後なのだろうという悲しみに変わる。
目を伏せ、唇の内側を噛む。
そう。あの言葉は確かに正論だ。だが――どうしても形容しがたいドロドロした感情が湧きだしてしまう。
駄目だ。関係ない。アイツの言う事でいちいち頭を抱えていたら身がもたない。
あの満月色の眼光を頭から振り払い、深く息を吸って吐き出した。
大切なのは、しっかりと今回の一件に自分の言葉で区切りを着ける事だ。これで、もう二度と彼は自分に笑ってくれなくなるだろう。これまで以上に嫌悪し、目すら合わせないようになるだろう。
それでもいい。もう、全部覚悟している。
香り立つ珈琲の水面に映る自分の顔を見つめ、その胸中の意志を再確認した時、
「――――待タセタナ」
酷くゆっくりと、ラズが客間の扉を開け、やってきた。
「…………ラズ」
「―――――」
何も言わずに目を伏せ、ゆっくりと自分の向かいのソファーに腰を下ろす。いつも通りの優雅な身のこなし。
全くいつも通りの、ラズだった。
「……会ってくれて、有難う」
そんな彼に、アッシュはまずそう言って軽く頭を下げる。
「――何ガダ。来タノハ貴様ダロウガ」
目すら向けず、冷めた口調で、ラズ。
「……うん。でも、正直通してくれると、思ってなくて」
「フン。ナラ帰ルカ?」
「いや。話させてくれ」
昨夜の事など本当に何も無かったような物言い。冷たく、どこか突き放すような空気さえ感じる、一昨日以前までのラズの自分に対する話し方。腕と脚を組み、ゆったりとソファーに身を預けながらも、人を寄せ付けない冷たく鋭い氷の気配は、一昨日までのものと変わっていなかった。
昨日という時間を、切り捨てたように。
ラズのその様に胸中に広がる鉛の重さを感じつつも、アッシュは意を決してソファーから腰を上げた。そして深く、頭を下げて、
「本当に――申し訳なかった!」
はっきりと、謝罪の言葉を述べた。対するラズはしばし彼を見据えたが、やがて目を伏せ、小さく溜息を吐きながら、
「………何ガダ?」
そう言った。
「っ……昨日の、事……」
ラズの、全く真に受けない様子に、言葉が詰まり途切れてしまいそうになるのを懸命に堪え、アッシュは続けた。
「ラズは謝る必要無いって言ったけど、やっぱりそれじゃ駄目だと思った。ラズは、俺とジズが苦しまないようにって、そうして自分を犠牲にしてるけど、それじゃ駄目だよ」
「…………」
今度は何の返事も無い。艶やかな唇は閉じられたまま。その紅い瞳も金の睫毛も、伏せられたまま。
それでも、アッシュは続ける。自分の想いを言葉にしようと。他の誰でもない、ラズに伝えるために。
受け入れてくれなくてもいい。ただ聞いてほしい。自己満足でも構わない。これしか自分に出来る事は無いのだ。
「これじゃ……このままじゃ、ラズの心の傷はそのままじゃないか! そんなの駄目だ。俺も、ジズも望んでない! お前が俺達の幸せを望んでくれるなら、俺達が本当に幸せに過ごせるようにも、昨日の事を有耶無耶で終わらせるのは駄目だ。ちゃんと、この件には決着を着けなきゃいけないんだ!」
一気に吐き出した。嫌悪されてもいい。失望されてもいい。このままにしてはいけない。
頭を下げたままそう言う彼に、ラズはどこか悲しげな目を向けてから、すぐにあの不敵な笑みを顔に貼り付けた。
「………何ノ事ヤラ……見当モツカンナ」
「ラズ! 本当に“無かった事”にするつもりなのか!?」
その物言いに顔を上げ、必死の表情で訴える。しかし彼はそんな訴えなど何でも無いかのように、
「“無かった事”モ何モ、昨夜ハ私ハ ジズ ノトコロニ人形ニツイテ報告ニ行ッタダケダ。貴様トナド、“何モ無カッタ”ダロウ。意味不明ナ事ヲ並ベタテルナ」
いつもの通りに、突き放す言葉を吐いた。
「違う!! 昨日会ったんだ!! 俺が――満月の光で暴走して、お前を襲って食い荒らした事、“無かった事”にしちゃ駄目なんだ!!!」
自分で言うのも苦しく、目をそらしたくなるような昨夜の出来事を、当事者のラズにアッシュは、泣きそうになりながら訴えた。
直後――
「成る程。“そういう事”か」
その言葉と同時に、“ラズの手から”鎖が飛び出し、一瞬にしてアッシュの身を縛り、宙に浮き上げた。
「―――っ!?」
とっさの反応で首に巻き付く鎖に腕を差し入れ、かろうじて首が絞まるのは避けた。
しかしギリギリと徐々に強くなる鎖の締め付けに苦悶し、訳がわからないといった目をアッシュが向けた先で、
ラズの姿がゆらりと霞み、次の瞬間そこに全く同じように鎮座していたのは――
「……せき……おん……さん……!」
次へ→