ソファーから腰を上げ、真っ直ぐ突きだした掌から伸びる鎖でアッシュを縛り、ただただ冷たく見据える赤き悪霊。
「ぐっ!」
頑丈な人狼の肉にどんどん食い込んで締め上げてくる霊力の鎖。そこに手加減など微塵もなかった。
ジズやラズと違って、“己の変化”を引き替えに契約を結んだ訳ではない彼。
自在に姿形を変え、持ち前の演技力であらゆる者を欺いてきた。
そして、今も。
「……っ……ど……してっ……?」
「どうして? 愚問だな狼人(ヴァルヴォルフ)よ」
「がっ!」
鎖の締め付けが、一層強くなる。伝う冷や汗、早鐘となる鼓動、恐怖、苦痛、困惑。それらが彼をより追い詰めていく。対する赤き悪霊、赤闇は、ただただその凍った銀灰色の眸でアッシュを見据えた。相手を射殺すような、冷たく鋭い眼光。底の見えない深淵のような闇を孕んだ左目には、しかし確かに“憤怒”と“憎悪”が満ち満ちていた。
大切なモノを傷つけられた、憤怒と憎悪が。
「では教えようか、緑の狼人」
そう、口を開く、彼。
「私はRazzのただ一つの存在意義となった。魂同士の契約だ。上辺だけのものではない」
静かに、絶対的に響く言葉。そんな言葉を、アッシュはただ息を飲んで聞く。
「まして、他の何よりも愛している相手だ。そんなあいつがどれだけ隠そうとしても、胸中で乱れる心、叫び、痛みに、私が気付かぬ道理など無い」
ごりっ、と鎖が食い込む痛みに苦悶するアッシュ。しかし赤闇は構わなかった。
「成程な。ラズが最後まで口を割らなかった理由が解ったわ。“そういう事”ならば、確かに、“私には”何が何でも話さないだろう。全く健気なものだ。だが――」
「ぐあぁあ!」
鉄より強い人狼の骨が、ぎしっと軋んだ。
「残念な事に、私は知ってしまった。そして知った以上、貴様を野放しにはしておけない」
絶対的な威圧が、言葉に乗ってアッシュを支配する。赤闇は冷たい無表情で見据えたまま、言葉を続ける。
「よくもまぁ、やってくれたものだな。ラズがあんなにも頑なに口を閉ざす姿は初めて見たぞ。これまでは、最後には白状して泣き崩れていたが、今回ばかりは何も言わず、ただ泣いて縋った」
「っ」
その様を想像して、アッシュは鎖の締め付けとは全く別の、胸の苦しさを感じた。自分はラズが涙を流したところを見た事はない。だから想像するしかない。
そうして想像した姿は、あまりにも痛々しく、哀れだった。
「おれ……は……」
「黙れ」
「あぐっ!」
びくん、と大きく痙攣した。
鎖の締め付けは苦痛と共に、いつの間にか熱を帯びていた。鎖自体が発熱し、徐々に肉を焼き始めていたのだ。宙吊りになった足は痛いほど痺れる。そうしながらも、赤闇は冷たくアッシュを見据えたまま、更に強く強く締め上げていく。もがく足は、ただ無為に空をかいて終わる。
「ぐ……ぅ!」
「苦しいか? だが」
ぎりっ、
「っ……!」
「ラズが味わった苦痛は――」
ぎしっ、
「こんなものではなかったぞ」
ばきゃっ
「――――っ!!!」
その衝撃に視界が明滅する。声すら出ない。
両腕が、焼け付く鎖によってへし折られた。
鋼鉄を誇る強靭さをもった人狼の肉体。その骨が折られ、肉にまで食い込んでいく。骨が折れたところで、鎖による締め付けは微塵も緩まなかった。
「ぁ――あがあぁあ!」
そして一拍遅れて、激痛が襲ってきた。
「耳障りだ」
低く、心底煩わしそうに言葉が吐かれるのと同時に、突き出した掌から更に鎖が伸び、アッシュの口を塞ぐように巻きついた。
「ぐっ! うぅ!」
苦しさと痛みで顔を顰め、苦悶する。そんな彼を、激痛を与えている張本人は静かに見据えていた。しかし、
「さて、どうしてくれようか……私も正直、これほどの怒りを得た経験があまり無いものでな。己の理性を保とうと必死なのだが――」
冷たく見据える双眸と、冷たく吐き出される言葉には、身を縛る鎖よりも熱く滾る憎悪が満ち満ちていた。激痛の中そんな赤闇の眸と目が合って、あまりの威圧に全身の血の気が退いた。焼け付く鎖に肉を焼かれ、今尚全身を砕かんと締め上げられているにも関わらず、体毛が総毛立ち、肌が粟立つ。
「っ……!」
ざわり、と、空間が歪む。
自分はこの、赤闇という霊について多くは知らない。ただジズよりもずっと昔から現世に留まっている霊であり魔術師であるという事。ラズの新しい存在意義となった相手だという事。そして、初めて会った時から感じていた、冷たい闇の気配。その闇が今何倍にもなって凝集し、煮詰まって、自分へと向けられているという恐怖と緊迫。
「全く、他者を愛したが故の憎悪、憤怒とは強力なものだな。今も、気を抜くとすぐにでも消し炭にしてしまいそうだ。実に制御し難い」
ふぅ、と一つため息を吐きつつ、当の赤闇はそんな言葉を綴る。しかしそれは冗談でも何でもなく、全くの本心なのだと気配が告げていた。
冷たくも熱く燃え立つ、狂気にも似た怒りを湛え、赤闇は続ける。
「しかし、だからと言って“前回”のように怒りに任せて焼き殺す訳にもいかん」
「っ?」
前回、とは一体いつの事なのか、自分をどうするつもりなのかと疑問に思ったのは、一瞬だった。赤闇は続けて言葉を吐く。
「この場で業火に包めば部屋に痕跡が残る。ラズは察しがいいからな。隠蔽したとしても、私が貴様に何をしたか気づくだろう。そうなると厄介だ」
赤闇は淡々と、言う。
「それに、そのような簡単な方法で貴様を殺しては、ラズのみでなくジズも気付く。それでジズが自らの契約を断ち、貴様を追って地獄に落ちようものなら、ラズまで消えてしまうからな」
「!?」
残酷な言葉を、紡ぐ。
「そうだな――痕跡が残らぬよう、この鎖で静かに貴様を焼き尽くそう。魂も肉体も消えるように、魂喰鬼にでも食わせよう。そして、貴様の傀儡を私が作り、ジズに別れを告げさせようか。永遠の別れではない、一時の別れを。『少し旅に出る。何年かかるか解らないが、必ず戻る』とでも―――そのまま傀儡が戻る事はないが、少なくとも、突然の死のショックで契約を破棄するような錯乱はせずに済むだろう」
「―――――っ!!!」
何て、事だ……!
確かにそうすれば、ジズもラズも消えはしないだろう。ジズはいずれ自分が死ぬ事を常に覚悟していた。自分が死ぬ時に情に任せて悪魔との契約を破棄しようものなら、折角ラズが新しく手に入れた幸せを、自分を道連れに壊す事になる。常にラズを創り、捨ててしまった事に負い目を持っていたジズは、自分からは決してそんな事はしないだろう。それがあまりにも突然に、あまりにも残忍な死別でさえなければ、ラズの幸せを考えられなくなる程の狂乱に追い込まれなければ、ジズは死んだアッシュとの思い出を胸に、現世で在り続ける。
だが、その裏にある真実はあまりにも残酷で、悲痛だ。
「そんな……事……!」
「黙れ」
全身を縛る鎖が、更に強くなる。しかしアッシュは折れた両腕に力を込め、自分の口を覆う鎖を引き下ろした。
「そんな事はさせない!」
そして叫ぶ。全力で抵抗するアッシュを、赤闇は眉一つ動かさずに見据えていた。
「俺は、俺は確かに取り返しのつかない事をした! 獣の本能にせよ、俺がやった事実は変わらない! それが貴方に殺されるに等しい事だっていうのも解る! でも、俺がやった事で、ジズに嘘の決意なんかさせられない!!」
魂からの、叫びだった。
ジズが、本当に自分が死んだ時、どれ程過酷な決断を迫られるか解る。どれ程の覚悟を、どれだけの想いを切り捨てなければならないのか。自分を驕っている訳ではない。昼間、自分の頬を打ち、涙を零しながらラズとアッシュを案じる言葉を吐き出したジズを、本心から理解している。だからこそ、彼に――
「俺はラズに謝らなければならないんだ! 貴方がそれを許さなくても、ラズ本人が望んでいなくても、それが俺とジズが本当に幸せになる為に必要な事なんだから! 俺達の幸せを、誰より望んでいるのはラズ本人だと、貴方は解っているんだろう!?」
涙が滲み、声が掠れてくる。
今も、ジズは屋敷で自分の帰りを待っている筈なんだ。今も、ラズはこの家のどこかで己の恐怖を押し込めている筈なんだ。
今回の事件に決着を着けるには、それ以外に道はない。赤闇の怒りは解る。もしも自分が逆の立場なら絶対に許せない。だが、自分がいくら相手に怒りをぶつけたところで、何も解決しないのだ。仇を打つという事を、被害に遭った方は望んでいないのだから。
「俺は俺の望みを叶える為に来たんだ! ラズは今日“何も無かった事にする”と言ったけど、それじゃ駄目だ! 俺もジズも、ラズだって本当に望んでいる事じゃない! あった事は消えない! そうだろう!?」
鎖に縛られる肉が潰れる。表皮はじわじわと焼かれ、生臭い煙を立ち上らせる。それでも構わない。本当に死ぬ前に、ラズにこの想いが届けばいい。そうすれば自分は必ずジズの元に帰れると確信していた。だって、彼らは“同じ”なのだから。
『ラズは、まだまだ、俺が知らないジズの事沢山知ってると思う。ラズを理解しないと解らない事も一杯あると思う。
だから――和解したい』
『―――構ワンゾ。アッシュ』
あの時のあの言葉は、本心だと信じたいから。
「俺は俺の望みの為に、がむしゃらに生きてやるって決めたんだ! それを、こんな終わり方にされて堪るか!!」
残された寿命一杯まで、全力で、精一杯、がむしゃらに生きると決めた。それをジズも望んでいる。ここで死ぬ訳にはいかない。ここで死んだら、ジズの想いもラズの想いも無駄になるじゃないか。
「無かった事になんかできない! それはラズが一番よく解ってる筈だ! 貴方が俺を殺して偽物を用意したって、ラズの中で何も解決していないのにどうしてこれまで通りに過ごせるんだ!? 貴方と一緒に過ごす時間を、どうやって後ろめたくない時間に戻せるって言うんだ!?」
魂からの、訴え。
「俺はラズに謝って、今回の事に決着を着ける!」
ジズ、
ラズ、
ユーリ、スマイル、
メメ、セレーノ、
他にも沢山の友達、大切な人。
その皆の時間へ戻る為に。
愛しい人の元へ、帰る為に。
「俺とジズの幸せを続ける為に! それがラズの願った事なんだから! 俺は生きてジズの処に帰らなきゃならないんだ! 貴方が俺の体を止められても、この意志は止められない! その為に来たんだ!」
ジズと交わした約束を全うする為に。
ラズが自分を心底嫌っても、彼自身の中で区切りをつけられるように。
それが、昼間ジズの言葉によって編み出された、自分自身の望みなのだから。
絶対に、ラズに会う。
そして約束を守ったと、屋敷で待つジズに告げるのだ。
そうするしか、呆れる程ちっぽけで弱い自分には方法が無いのだから。
「ジズとラズに、これ以上悲しい想いはさせられない! そうならない為に、俺は生きてラズに会って、生きてジズの処に帰るんだ!!」
生まれて二十数年、最も強く想った、生きようとする意志。
ここで終わりになんかさせないと、強く激しく、切に願った魂からの言葉。
終わらない。終わりになんかさせない。
だが、
「貴様の訴えはそれだけか。ならばもう良い。死ね」
そして視界が、真っ白になって――――――――……………
〈――サセラレナイナ。イクラ相手ガオ前デモ〉
目の前を塗りつぶした白いマントの主は、微かに震える声で、赤き悪霊に向けてそう言った。
「………ら……ラズ………?」
瞳を見開き、驚愕した。
目の前に飛び込んできた白い影、ラズは、自分と赤闇との間の虚空に静止し、その焼け付く霊力の鎖を掴んだのだった。アッシュを背にしたまま、自分の手が焼けるのも構わず、何のためらいもなしに飛び込んだ。幽体化していても、霊力により具現化された鎖には触れられるし、当然その効果にも当てられる。そうと解っていながらも一切怯む事なく、アッシュを縛る鎖を掴んだのだった。
「――――」
そしてその状況を刹那に理解した赤闇は、ラズが鎖を掴む直前に、その熱を解いていた。
〈サセラレナイ〉
一瞬にして熱を失った鎖を尚強く握り、同じ言葉を呟くラズ。
「――……よく、あの“眠りの結界”を突破できたな」
感心したような、呆れたような声でそう言い、赤闇はこれまでの冷たい無表情を初めて崩すと、苦笑を浮かべた。
〈コレデモ苦戦シタサ。ダガ、オ前ガアソコマデスルカラニハ、ソレ相応ノ理由ガアルダロウト思ッテナ。間ニ合ッテ良カッタ……〉
瞼を伏せ、悲痛な表情でそう言うラズ。
ラズが目覚めた時、すぐにまた心地よい睡魔が襲ってきた。しかしその睡魔に堕ちる前に、寝室に張り巡らされた異変に気が付いた。完全に無音の大気、絨毯に穿たれた魔術儀式用の楔、そして心地よい中にも微かに存在する、魔道の香り。この状況が赤闇の魔術による物だと、睡魔に侵されつつある意識が理解した。そして刹那の後、嫌な予感が脳裏を駆け巡った。そして当の赤闇は、寝室の何処にもいない。危機感が爆発した。
睡魔に流されぬよう意識を奮起し、何度も印を結び反対呪文を唱えて、ようやく脱出し二人の声が聞こえる方向へ急いでみれば、この状態だったのだ。
あと数秒でも遅れていれば、間に合わなかっただろう。
〈―――大体ノ話ハ、モウ解ッタ〉
鎖を掴んだまま、静かに言葉を続ける。背にしたアッシュからその表情は見えなかったが、ラズの、こんなにも悲しく、強い背中は初めて見た。対する赤闇は苦笑を浮かべたまま、黙って続きを待つ。
〈ヤメテクレ赤闇。オ前ニコイツヲ殺サセタクナイ〉
気を抜けば、涙が滲んできそうだった。このあまりにも残酷な現状を目にした時、一瞬体が硬直した。そして全てを理解した。
この場に到着するまで、声を頼りに飛んでいる最中、あのアッシュの言葉も確かに届いていた。
『俺は俺の望みの為に、がむしゃらに生きてやるって決めたんだ! それを、こんな終わり方にされて堪るか!!』
まず、その声の主が誰であるかを脳が認識した途端、嫌な予感は現実のものとなったと理解した。
『俺はラズに謝って、今回の事に決着を着ける!』
そしてこの言葉で、彼がわざわざこの屋敷にやってきた理由も、全て解った。
後は壮絶な勢いで襲ってきた恐怖と後悔と悲痛に止まってしまいそうな体を無理に動かし、続きの“彼”の言葉を聞きながら、この客間に滑り込んだのだった。
〈―――“コウナル”ト解ッテイタカラ、話セナカッタヨ〉
苦笑を浮かべる赤闇に向け、ラズはただ切なく眉を寄せる。静かな客間に、三人が一直線に並んでいた。赤闇とラズは互いを真っ直ぐ見つめ、アッシュは今尚宙吊りになったまま、ラズの半透明の後姿と、対する赤闇の微かに歪んだ苦笑を、両目を見開いて見つめていた。
〈何モ言ワナケレバ――何モ起キナケレバ、無カッタ事ニデキルト思ッテイタノニ……〉
幽体化し、アッシュへ伸びる鎖を掴んだまま、ラズは赤闇を見下ろしながらそう続けた。
アッシュを護るには、全てを隠し通すしかなかった。事が知れれば、赤闇がどう行動を起こすか、おのずと理解できた。それを解ってくれたからこそ、ジズも赤闇にだけは教えないと約束してくれたというのに――
「だが、それは無理な事だと、本心では解っていたのだろう? いずれは“こうなる”と」
赤闇はそう言って、その銀灰色の左目を細める。
〈……本当ニ、オ前ニハ敵ワナイナ。赤闇〉
静かに、ラズは目を伏せる。
隠したい。無かった事にして貫きたい。そう思っても、赤闇の言うとおり本心では解っていた。隠し通せる筈がない相手だという事も、アッシュが自ら行動を起こすであろう事も。だがそれを覚悟するには、まだラズの精神は脆すぎた。たった一夜という時間で、全てを覚悟して受け入れる事はできなかった。昨夜の記憶を呼び戻せば、後悔と悲痛で気が狂いそうになる。それを受け入れるには、“感情の凝縮体”である自分には時間が必要だった。どれほどかかるか解らない、途方もない時間を要する程の覚悟が必要だったのだ。
ジズと、アッシュを護りたい。もうこれ以上悲しませたくない。
赤闇の元へ還りたい。要らぬ心配も迷惑もかけたくない。
その想いを貫くには、まだ、こうするしかなかった。
しかし事態はあまりにも早く、最悪の状態で起こってしまった。こうなってはもう、立ち止まる事も後へ戻る事もできない。
「っ!」
「……」
アッシュが息を呑み、赤闇が静かに微笑む中、青い炎が空間に踊った。それはラズとアッシュを包む薔薇の花弁のように広がり、ゆらゆらと波打つ。
〈赤闇、オ前ノ気持チハ解ッテイル。ダガコレ以上コイツニ危害ヲ加エルト言ウノナラ、私ハオ前ト戦ワナケレバナラナイ〉
凛とした声が空間を振動させる。ラズは伏せていた瞳を開き、覚悟を持った紅い視線で赤闇を捉える。その赤闇は、ただ静かにラズを見上げていた。
〈ドウシテモ殺ルト言ウノナラ、私ハ私ノ魂ノ約束ヲ守ル為ニ、行動スルシカナイ〉
霊力の青い炎は、ラズの金髪を、白い服を柔らかく照らす。壁に面した窓から差し込む西日と混ざり合い、それは幻想的に揺らめいた。
意を決したように唇を固く引き締め、そこで一拍置いて、鎖を握る手に、力を込め――
〈私ハ ジズト アッシュヲ護ルト決メタンダ! ソシテ赤闇ニハ、モウ要ラヌ罪ヲ負ワセタクナイ!〉
叫んだ。
本心から、身を絞るような思いで口から出した願い。
後には退けないから、迷ってなどいられないから。
〈オ前ガ私ヲ想ッテクレルトイウダケデ、モウ充分ナンダ! 私ガ罪カラ生マレタ存在デアッテモ、ソレヲ受ケ入レテクレタオ前ニハモウ、コンナ事ヲシテホシクナインダ!!〉
堪えていた涙が溢れだす。
様々な感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、もうその意味も解らない涙が次から次へと。
彼の愛情の深さは解っている。この愚かで穢らわしい“罪の子”を、何より大切に想ってくれていると。彼がアッシュを許せないのは、その愛情故だという事も。この理不尽な現実に自ら制裁を加えないと気が済まないという事も。
それでも私は、護りたい――
〈身勝手ナノハ解ッテイル! ダガ私ノ事ヲ想ッテクレルノナラ、モウコンナ事ハヤメテクレ!〉
胸が張り裂けんばかりの叫び。
この場で泣き崩れたい、何も見たくないし聞きたくないという強い拒否の感情を無理矢理押しつぶし、本当に伝えたい自分の中の真実を、言葉に乗せた。
〈……ヤメテクレ、赤闇。オ前ト戦イタクナイ〉
静かにそう言って、口を噤む。
そして広い客間に下りる、しばしの静寂。
泣きたくなどなかったが、やはりこれ以上抑え込む事などできなかった。アッシュに背を向けていて本当に良かったと切に思う。恐らく誰よりも涙を見せたくない相手だろう。
そのアッシュはラズの背後で、ただただ瞳を見開いてその叫びを聞いていた。驚愕と動揺、そして憂愁。それらの感情が混ざり合ったような表情で、その白い背中を見つめていた。
あんな事をしたというのに、それでもラズは自分を護ると言ってくれた。自分とジズを、護りたいのだと、自らの口でそう言ってくれたのだ。
今日の昼間、昨夜は何も無かったのだと、冷たく、絶対的に言い放った彼の姿が脳裏で蘇る。
苦心し、慟哭し、悲痛に心を満たされた中で絞り出したのであろう、ジズとアッシュが、赤闇が――自分以外の皆が悲しまない世界を維持するための言葉。その言葉をアッシュに告げ、そして消える直前に見せた“あの表情”は、今でも脳裏に焼き付いたまま。
『彼は貴方を……大切だと言ったから!!」』
『ラズは優しい……優しすぎて自分を傷付ける!』
本当に、ジズの言う通りだ。己を犠牲にした結果、彼は傷付き、最愛の人とこうして対峙する事になった。全てを自分のせいにして、全てを背負い込んだ。
過去の惨劇を全て自分のせいにして背負い込み、独りでその重みに耐えていた頃のジズの姿が重なる。しかしあの時から、彼はジズの中にいて、その重みを共有していたのだ。きっと最初から、彼は己を犠牲にしながら、大切なモノを護ってきた。
「――ぁ」
そうしてようやく、アッシュも気付く。
小さく声を漏らし、瞳を見開いて硬直した。
ラズは、ジズの対極な面が具現化し、分裂した存在。“負の感情の凝縮体”だと、ジズ本人から聞いていた。しかし彼は――その身を構成する負の感情の中には――……
やっと、解った。
「……それを本気で言っているのならば、愚かだなラズ」
静寂を破って発せられた赤闇の言葉に、哀しげに顔を歪め、ラズは身構えた。やはり赤闇は、どうしてもアッシュを消さなければ気が済まないと言うのか。やっと涙が止まった顔で、そう言葉を発しようとした瞬間、
「私が、お前と戦うなど出来る筈なかろうに」
柔和に微笑み、直後、アッシュを縛っていた鎖が消失した。
「わ!?」
床から1メートル以上のところで宙吊りにされていたアッシュは、突然支えを失った事で落下したものの、俊敏な反射神経で何とか転ばずに着地した。
〈……………ッ〉
言葉を失って瞳を見開いているラズへ、赤闇は微笑みを浮かべたまま、無言でその手を差し伸べた。いつもの、どこか意地悪そうでいて優しい、あの笑みで。
緊張の糸が切れた。
周囲を覆っていた青き炎は消失し、客間は茜色の夕日で満たされる。
そしてラズは赤闇の手に自らの手を重ねるように降り立ち、幽体化を解いた。
*
「――――」
冷たく聳えるラズの屋敷を、ただ無言で見上げていた。胸の前で指を組み、神に祈りを捧げるように。
日が落ち、すっかり冷たくなった風が黒髪を揺らす。そして黒いマントを、赤い羽根飾りを靡かせる。
「…………アッシュ……」
小さく呟き、ジズは組んだ両手に力を込めた。
アッシュを信頼している。きっと大丈夫だと。しかしそれでも、不安は胸の奥でこんこんと湧き出していた。もしラズに謝る事ができたとして、それをラズが聞き届けたとしても、同じ屋敷に住んでいる赤闇が一切関与しないとは思えなかった。今回の一件について彼が知ったらどうするか――想像したくない結末だ。だからこそ、自分もラズに“赤闇にだけは言わない”と約束した。けれどアッシュはたった一人、直接この屋敷に乗り込む事を希望した。もう、ジズの屋敷を出発してから随分時間が経っている。たまたま赤闇が外出でもしていない限り、接触しない方がおかしい話だ。いつまで経っても連絡がつかない彼の身を案じ、自分の屋敷を飛び出して、かれこれ三十分もの間こうして屋敷を見上げていた。何か異変があればすぐにでも飛び込もう、そう思い、ジズは夕暮れに沈む廃墟を見上げていたのだった。
明確な時間は覚えていないが、アッシュと別れてから、恐らくもう二時間は経つ。いくら何でも、遅すぎる。
「……っ」
もし、自分がこの場に到着するより前に、全てが終わっていたら――
「アッシュ……!」
そう思い至ると同時に、不安と焦燥が爆発した。これ以上は待てない。もしも全てが手遅れだったら――
ジズが覚悟を決め、幽体化して屋敷に飛び込もうとした、その瞬間、
「あだだだだだだだだだ痛い痛い痛いちょっとストップ!!」
「大人シクシロ コノ根性無シガ!!」
そんなアッシュの叫びとラズの怒声が聞こえてきた。
〈………え?〉
その、どう聞いても断末魔には聞こえない絶叫にしばし呆け、我に返り、慌ててラズの屋敷の客間に滑り込んでみると、
「沁みる沁みる沁みる何スかこれ痛すぎる!」
「だが、火傷にはこれ以上ない程良く効くぞ? 私が調合したのだから間違いない」
「ト言ウ訳ダカラ少シハ黙レ! 先程マデノ威勢ハ何処ニ行ッタ!?」
「いやそれとこれとは別であだだだ!」
ソファーに腰かけて優雅に珈琲を飲む赤闇と、その前で火傷だらけのアッシュにぐりぐりと容赦なく薬を塗るラズが居た。
〈……………これは……一体?〉
何度も瞬きをして硬直するジズに、赤闇は横目で微笑を浮かべ、ラズとアッシュははっとして振り返った。
「――ヤハリ来テイタカ、ジズ」
苦笑し、一つ息を吐いてそう言うラズと、
「ジズー! 頼むからちょっとラズと交代して下さいっス!」
そう涙ながらに訴えるアッシュの姿を見て、どうやら最悪の結末は免れたらしいと、安堵の笑みを浮かべた。
事の顛末を聞き、ジズはソファーの背もたれに体を沈ませ、長い長い息を吐いた。
「……良かった……」
小さくそう呟いて安堵し、出された紅茶を口へ運ぶ。
当のアッシュは上半身包帯だらけで苦笑を浮かべ、ラズは複雑な表情で目を伏せた。
砕いた両腕は、赤闇自らが白魔術を用いて完治させたらしい。上半身ほぼ全域に及んでいた大火傷にも同様の処置を提案したが、それはアッシュ本人が拒否したと言う。
「ま、このくらいの傷は受け取らないと、俺としても納得できないっスからね」
そう、隣で微笑むアッシュ。
「でも今回、本当に走馬灯ってもんを見たっスよ」
「自分が悪いんでしょう?」
「はいその通りです」
そんな会話を交わす自分達を、赤闇は特に気にせず珈琲を飲み、ラズはまだ複雑な表情で横目に見ていた。
「………お二人共、本当に有難うございました」
テーブルを挟んで向かいに座る二人へ、ジズが改めてそう感謝の意を述べると、暫く黙っていた赤闇が一つ息を吐き、
「お前に礼を言われる筋合いは無いな。ラズが飛び込んでくるのが遅れていれば、私は確実にアッシュを殺していたのだからな」
カップの中で波打つ珈琲を眺めながら、淡々とそう言った。しかしジズは特に気にする様子もなく、至って真面目な瞳で赤闇を見据え、軽く微笑む。
「けれどそうはならなかった。だから貴方達お二人に感謝しているのです」
その言葉に、赤闇は口の端を攣り上げ、
「お人よしにも程があるぞジズ。まぁ、精々ラズには感謝しておく事だな。私は別として」
そう言って、普段通り、咽の奥でククッと笑った。
「あ、あのー赤闇さん? やっぱりまだ相当怒ってるっスよね恨んでるっスよね?」
「さあどうだかな? この現状は客観的に見ればなかなか面白い状況ではないか?」
「いやぁ面白いとか面白くないとかそんな可愛いもんじゃない気がするんスけど……」
「ならばそう心得ておく事だ」
「えええぇえやっぱマジッスか!?」
「さあ?」
そんな二人のやりとりを、ラズは唖然と見、ジズはくすくすと笑いを零した。
「……ヨクモマァ、コンナニ短イ時間シカ経ッテイナイノニ、ソンナ会話ガ出来ルモノダナ……実際ニ殺サレカケタ相手ダト言ウノニ………」
呆れたようにそう言葉を漏らすラズに、
「あれがアッシュの良いところですよ。それに赤闇も、やはり並の精神力ではありませんね」
ジズはそう応えて微笑む。
「マァ、アイツハソモソモ度量ガ違ウト言ウカ……何ト言ウカ……」
「桁が違うとか、次元が違うとか、そんな感じですよね」
「ウム……」
神妙な表情を浮かべるラズに、ジズは続けて口を開く。
「あぁラズ? 今回の事を踏まえて、一つ言っておきますね」
「ハ?」
突然話題が変わって怪訝に首を傾げるラズへ、ジズは嫣然と微笑み、
「これからは、もしそこのアッシュが粗相をしましたら、遠慮なく殴るなり切るなりして下さい。後遺症等が無いなら問題ありませんから」
そう言った。
「ちょ! ジズ!?」
「アア、ソノツモリダ」
「そんなあっさり!?」
「大丈夫ですよ頑丈ですから」
思わず身を乗り出して口を挟むアッシュを、ジズはまたくすくすと笑い、ラズもやっと、苦笑をもらした。
そんな会話を交わす三人へ、
「それもそうだが――ジズ」
持っていたカップをソーサーに置き、赤闇がこれまでと明らかに違う響きをもって言葉を発して、三人が一様に硬直した。
「……はい?」
先程までの空気が一変するような威圧をもった言葉に、ジズは恐る恐る応えて少し身構える。まさか今更気が変わってアッシュを生きて返さないとでも言いだすのではないかと――そう思わせるまでの威圧がそこにはあった。だが、
「私からも一つ言わせてもらおう。どうやら本人が出来ていないようならば仕方ない。お前が満月周期の把握くらいしろ。ペットの管理は飼い主が徹底しろ。二度目は無いぞ」
「え、あ、はい!」
「すみません!」
ペット、とか飼い主、とか、正直つっこみたい単語があったものの、今の赤闇の威圧の前には到底無理な話だった。背筋を正してそう返す二人に頷いてから、
「それと、ラズ」
「エ!?」
今度はラズに向き直り、その銀灰色の瞳で真っ直ぐ見つめる。突然名を呼ばれてびくりと肩を震わせる彼に、赤闇は静かに言葉を続ける。
「いいかお前にも約束してもらおうか。もう二度と満月の夜に一人で出歩くな」
隣へ座るラズに顔を近づけ、いきなりそう言った。
「ァ……」
「お前が満月を好んでいる事はよく知っている。故にもう出歩くなとは言わん。だが単独行動はするな。異論は認めん。解ったな」
断定的に、一切の異論も反論も受け付けない迫力で、そう言い切った。
「ワ………解ッタ」
頭の片隅で、赤闇にここまでの威圧を向けられたのは随分久しぶりだなと考えつつも、ラズはただ、そう応じるしかなかった。
すっかり夜になってしまった、ラズ邸からの帰り道。
「本当に、よく頑張りましたね、アッシュ」
「はは。まぁ、ラズに助けてもらったんスけどね」
夜の静かな森の中、ポリポリと頭をかいて気恥ずかしげに苦笑するアッシュに、ジズは至って真面目に応える。
「それでも、貴方の真意が伝わったからこそ、ラズは止めに入ってくれたんです。それが出来たのだから、大したものですよ」
そう優しく言うジズに、アッシュは一度瞬きをしてから、歩を進める彼の肩を抱いた。
「有難う。ジズ。ジズが後押ししてくれたから、何とかなったよ」
足を止め、一旦目を伏せてから、アッシュに向き直る。
「そう……“何とか”はなりました。しかし」
そこで一拍置いて、言葉を続ける。
「口ではああ言っていましたが、ラズも赤闇も、本当に、本心から許すなんて出来る筈がありません。あれからまだ一日しか経っていないんです。例えどんなに謝られて、それを了承したからと言って、綺麗さっぱり何の隔たりも後腐れも無くせという方が無理な話です」
「……うん。解ってる」
「けれどもそれは、“今”の状況です。少なくとも、もうラズは以前のように貴方を避けたりはしない。赤闇も、会うたびに殺そうとか、そんな事はしない筈です」
「まぁ、そうっスね」
そこで、ジズは力強く笑みを浮かべ、
「だから、一歩は前進です。彼らとの間に壁はあるけれど、その壁は、時間をかけて薄くしていきましょう」
そう、頷いてみせた。そんなジズにアッシュも頷き、笑みを浮かべる。
「……ああ。その通りだな。後はもう、地道に努力して頑張るっスよ」
そして肩を抱いたまま、また歩を進める。
「もう、今夜はいい時間です。私の処に泊まりなさい。ユーリさんとスマイルには、こちらから伝えておきますから」
「二日帰らない事になるっスからね……そうしてもらえると、助かるよ」
声を出して笑う二人を、少し欠けた月が、優しく見下ろしていた。
「―――赤闇、オ前、私ヲ試シタナ?」
バルコニーから先程屋敷を後にした二人の後姿を見送り、その姿が完全に森の中へ消えるのを待って、唐突にラズがそう口を開いた。
「………ほう?」
それを聞いた赤闇は、まず隣に立つラズを無言で見据え、次いで愉しそうに口の端を攣り上げる。
「ヤハリカ。コノ悪趣味メ」
その笑みを肯定と判断し、ラズは苛立ちと疲弊の混ざったような息を吐き、赤闇は口元に指をやってククッと笑う。
「流石だなぁラズ。いつから気付いていた?」
「ジズ ガ来テ少シ経ッタ辺リダ」
「結構な事だ」
「オ前、最初カラソノツモリダッタナ!? アッシュノ命ヲ使ッテ私ノ真意ヲ計ル為ニ!」
その言葉に、赤闇は無言でラズの顎へ手を添え、自分の方へ近付けた。
「ッ!」
「ああでもしなければ、私が納得できん。最善にして最良の方法だったと思うが?」
唇が触れるほんの数センチ前まで顔を近付けられ、真っ直ぐにそう言う赤闇に悔しさと恥ずかしさで頬を赤らめる。
「……ソレデ、結界ヲ“寝室ノ一ヶ所ノミ”ニ留メタノカ。ソレモ、アル程度効果ハ強イガ突破デキナイ訳デハナイ、“眠リノ結界”ニ」
赤闇の胸を押し戻し、ばつが悪そうに顔を歪めながら、ラズはそう吐き捨てるように呟いた。
本当に自分を介入させたくなかったのならば、最初から目覚める事がないような、もっと強力な結界が張られている筈だった。それが、何とか抗えば突破できる結界が一つだけ。肝心の客間は全くの無防備状態だった。客間ごと外界からは認知できなくなるような、そういう魔術含め、方法は他にいくらでもあった筈だ。ラズを完璧に安心させ、その裏で誰にも知られずに屋敷にやってきたアッシュを始末し、これまでの日常に戻るという手段は、千年分の魔術知識を持つ彼なら簡単に実行できた筈だ。
しかし、あえて今回の方法をとった。
「お前があそこまで頑なに口を閉ざした一件だ。その意志を完全に無視するのは気が進まん。だからお前の意志がどれ程のものか、賭けてみたという訳だ」
その物言いに、ラズはキッと鋭く睨みつける。
「賭ケタダト? 偶然ニ私ガ目覚メナケレバコウハナラナカッタト言ウノニカ!?」
「ラズ」
怒鳴る彼を静かに見据え、赤闇はただ笑みを浮かべ、
「“偶然”ではなく“必然”だ。あの結界は偶然で目を覚ます程弱くない。まして、術者は私だぞ? 見くびるな」
その言葉に息を呑むラズ。赤闇は続ける。
「私がもった殺意は本物だ。確かにあと数分遅れていれば、私はアッシュを殺しただろう。だがその数分で、お前は彼を救った。それだけの時間を得る程、お前の意志は強かった。私はその意志をくんだという訳だ」
諭すようにそう言う赤闇に、ラズは複雑そうに口を開く。
「ナラバ、本当ニアト数秒遅レテ、結果私ノ目ノ前デ殺害シテイタラ、私ガドウナッタカ解ランゾ?」
しかし赤闇はまたおかしそうに笑い、
「それは無いな。何故なら術者である私には、寝室の結界が突破された瞬間に解るからな。あの時点で、もうお前がこの場に向かっている事は察していたさ。だから言っているだろう? “数分”と」
「!」
そうか。そういう事か。
「お前も術者ならば、そのくらいすぐ察しろ」
「ッ……悪カッタナ」
ぶっきらぼうにそう返し、顔を背けた。
つまり赤闇は、あの時自分がいつ客間を訪れるか、ではなく、そもそも寝室の結界を感知し、突破できるかどうかに賭けていた訳だ。突破できれば、それはラズが赤闇を止める為、アッシュを護る為に動くという事。そのラズの意志がどれ程強いか、アッシュを生かしておく必要がある程かどうかを見極めた。
「全ク、大シタ役者ダナ」
額に手をやり、複雑そうな表情を浮かべてそう呟く。本当に、この赤闇という奴は自分達より何枚も上手なのだ。持前の演技力と豊富な知識、そして回転の早い頭と自信で周囲を見極める。事をどう運ぶかは、彼の匙加減によるのだろう。“喰えない奴”という表現の模範のようだ。
「一応、褒め言葉と受け取っておこうか。だが――」
目を伏せてそう微笑んだ後、赤闇は続けた。
「その私を支配しているのは、お前だぞ」
「!」
彼の言葉に瞳を見開き、顔を上げる。そこへ伸びる白手袋を嵌めた手は、頬を滑り、顎へ添わされ、唇を撫でた。
「私はお前の存在意義だ。しかしこれは逆も然り。今“赤闇”という霊が現世で存在している理由は、お前だ。ラズ」
真剣な眼差しで、彼は真正面から目を合わせる。そこには一切の迷いも虚偽もなく見えた。
そしてそれは実際に、その通りだった。夜風が二人の髪を緩やかに靡かせる。
「先に心を支配されていたのは私の方だ。お前が私以外のモノで心を乱されるのは我慢ならない。心も体も、私から離れられるのは困る。今の私が在るべき理由はラズなのだから」
「私ハ……」
静かに綴られる言葉に、口籠るラズ。
己の新しい存在意義は赤闇だ。彼がいるから自分は自分として在る事ができる。元来の存在意義を剥奪され、行き場を失った自分にとって彼がどれだけ大切な存在か、どれだけ救われたか。
故に、今の彼の言葉は、魂を震わせた。赤闇は続ける。真剣な表情のまま、言葉を綴る。
「昼間も、私がどれだけ自己嫌悪したと思う? あんな状態のお前をどうする事もできず、ただ抱くしかできなかった己を、どれだけ憎く思ったか」
「違ウ! アレハ私ガ――」
「ラズ」
全て自分が悪いのだという訴えは、赤闇の言葉で遮られる。そして、
「お前の存在意義は、“私”だろう?」
ふっ、と笑みを浮かべた。
その優しい微笑に、胸が詰まる。
「忘れたとは言わせない。お前は私のモノだ。そして、“私はお前のモノ”だぞ」
ゆっくりと、彼の唇が近づく。そして優しい響きを伴いながら、言葉の続きを口にした。
「だから、その心ごと、戻って来い」
唇を重ね、赤闇の胸に身を預けて、その背に両腕を回して、
ラズはやっと、己が最も必要とする相手の元に、最も己を理解してくれる相手の元に還ってきた心地がして、
昼間に流したのとは違う涙を零し、胸中に溜まった全てのものを吐きだすように、慟哭した。
そんな二人が重なるバルコニーを、少し欠けた月が、静かに見下ろしていた。
‐END‐
えーと。「冷たい夜」完結です。
まずは、中編をUPしてから、後篇をUPするまで、丸丸1年放置してしまい本当にすみませんでした!!!!!!!;;;; 仕事忙しいはもう言い訳にしかならんので言いませんほんとすみません! まだ待っていてくれた方いるのだろうか;;;;;;;非常に不安です;;;;;;;;
そしてやっぱり、長くなりましたね;主要2カップルが仲良くなる話、という事で一応決着(?)かな…… いや、中編をUPした時点では、正直どう完結させるか決まってなくて……;すっごい色々考えて、こうなりました;色々考えた中には本当にアッシュ死亡ルートなんかもあったりして、いやそれは駄目だ! と思ったけどでもこれアッシュ殺さないと赤様の気が収まらんし……さてどうしようジズに止めさせるかラズに止めさせるかはたまた二人に止めさせるかとか色々悩んで、結果、安易な終わり方になってしまいました;なんか色々ごめんなさい;
ちなみに、中編にありましたラズに化けてた赤様の『どこか悲しげな目を向けてから』っていうのも、勿論全て演技です;この人は『全く普段通りのラズ』をいとも簡単に演じられる人です;;;主演男優賞ものですね;あと、寝室で目覚めたラズはもち裸でしたが、幽体化したので瞬間着替えです。幽霊さんって便利ですね(笑←)
数年前この話を思いついた時は、この4人の対人関係泥沼になって、絶対修復できないじゃん!!! って感じでしたけど、何とかなりました;ジズさんが言ってたように、全く壁がなくなった訳ではないけど、壁が永遠続く訳でもない、と。とりあえず、赤白はアスの事名前で呼ぶようになりましたし(;´Д`)
文章力はどんどん右下がりな紫雲ですが、少しでも楽しんで頂けたら幸いです。最後まで読んで下さり有難うございました!!!
なんか明るい短編書きたいなぁ(゜∀゜)