冷たい夜
連日の雨がやっと上がったと思えば、どんよりとした厚い雲が空を覆ったままだった。
朝から、すっかり日が落ちた現在まで、雲が晴れる兆しは見えない。晴れた空を何日見ていないのかも解らないような状態だった。
ラズは開いた窓から曇天を見上げて、まだ残る雨の匂いを胸に吸い込む。月も星も見えない空だが、雨の雫が降ってこないだけでも気が晴れた。
雨は嫌いではないが、こうも長く続くと気が滅入るものがある。
今この屋敷に赤闇はいない。何処に行ったかと言えば、MZDの処にほぼ強制的に連行されていた。本人はラズの側から離れるのを極力避けようとしていたが、神が相手では強行突破しきれないものもある。呼ばれた理由は、次回のパーティーにこそ加われ、というものらしいが、彼は毎回のようにその申し出を断ってきた。理由を本人に言わせれば、“面倒だ”の一言だ。きっと今回も適当にあしらって帰ってくるのだろう。いくら神相手でも、そんじょそこらの参加者候補とは桁が違うのが赤闇だ。今回のような強制連行も、もう何度目だろう。途中から面倒になって数えるのをやめた。
きっと、明日の昼までには帰ってくる。もういつもの事だ。時間にしてみれば、たったの十数時間。以前のように四日五日も不在の事はなくなったので、それに比べれば本当に短い時間だと思う。ほんの一時間前に出て行ったばかりだ。今夜はどうして過ごそうか。
「………………ソウダ」
思い出したように呟く。
雨も上がった事だし、共同で作っていた人形の自分の担当分が完成したので、丁度いいからこの時間を利用してジズの家に行こう。ジズまでMZDに呼ばれて不在ならば仕方ないが、行くだけ行ってみても良さそうだ。
そう思い、外出を決める。まだジズも眠るには早い時間だ。訪れても迷惑にはならないだろう。もう事前にわざわざアポイントを取るような仲ではない。気が向いた時にお互い訪問する、親しい間柄だった。
ラズは窓を閉めるとクローゼットからマントを引き出す。それを羽織り、ポールに掛けていた帽子を被ってから人形達に留守を言いつけて、玄関へ向かった。何となく、飛んでいくよりも歩きたい気分だった。ここ連日雨で出歩かなかったので、久しぶりに散歩もいいだろう。
外に出ると、昨日までの雨で潤った草木が生き生きしているように見えた。冷たい夜気を肌に感じながら森を進む。
風が、少し強い。
地面の感触を確かめるように、ラズは暗い森の中を一人歩いて行った。
ヴェネツィアは寒暖の差が激しい地域だったので、この日本に位置した幻想世界の冬はさほど寒くない。海に囲まれた湿地帯であるヴェネツィアは夏も冬も湿度が高かった。そういう点ではこの地で暮らすのはあまり苦ではない。――それでも夏はやはり暑かったが。
そこでふと、今自分は湿度や温度を自然に感じながら生活している事に気付く。本当に、赤闇に出会ってからというもの、実体化している状態が多くなった。それまでは聖なる気に触れて仕方なく解けてしまう以外に殆どなかったというのに。今ではもう、大分昔の事だ。
世界の変化を肌で感じて過ごす――ジズと同じだな、と改めて思う。
当然だ。私達は“同一”なのだから。
「――――あれ? ラズ?」
「!」
物思いに耽って歩いていたら、いつの間にか別方向からやってきた相手の気配に気付けなかった。
「…………」
「わ! 待って! そんないきなり踵返さないで下さいっス!」
慌ててそう言う緑の人狼、アッシュを無視して元来た道を引き返す。できる事なら直接顔を合わせたくない相手と、こんな夜の森で二人きりなど御免だった。前回の茶会の時は、メメに同行を強いられて仕方なく行ってみたものの、本心ではどう接していいかも、どのような顔をすればいいかも解らなかったと言うのに――
そのまま足早に歩を進めるラズを、アッシュは困った顔をして追いかける。彼も、まさかラズと出会うとは思っていなかった。ここ連日の異常なまでのハードスケジュールに疲れ、ユーリとスマイルが早々に眠ってから、気晴らしに夜の散歩に出てみたら偶然の出会いだ。彼の分裂に立ち会ったあの日以来、まともに話した事は無かった。この場での出会いを無駄にしたくない。できる事なら彼とも和解したいと、ずっと願ってきたのだ。
「ラズ! ちょっとだけ待って下さいっス!」
「必要無イ」
「いや、折角こんな偶然に逢ったんだし、これも何かの縁って事で……」
「知ッタ事カ」
ラズがいくら歩いてもアッシュは小走りに追いかけてくる。このままでは埒があかないと判断し、とうとう幽体化しかけた時、
「だから待って下さいっス! 前から話したい事あったんスよ!」
その言葉に、幽体化をやめて立ち止まった。そしてちらりと顔だけで振り返る。この人狼に対して、こちらは――
「……私カラハ、何モナイ」
「…………ラズ」
「何モ、言エル事ナド、無イ」
「……俺の事、恨んでるっスか?」
神妙な顔で問われたその言葉に、一瞬胸が詰まった。背を向けたまま、刹那瞳を見開いて唇を噛む。
昔の自分ならば、恨んでいると憎悪を吐き出しただろう。
自分が最初の存在意義を失う原因になった相手。彼さえ居なければと、何度も何度も殺意を抱いた。
殺意を抱いて、憎悪で胸を焼いて――最後に辿り着くのは、そんな事しか考えられない自分に対する絶望だった。
大切な人が愛した相手を、完全に許す事ができない、醜い自分。
だが今は、自分には新しい存在意義がある。
赤闇という存在が居てくれる。
今はもう、この人狼に対して憎悪を抱く事はなくなった。
複雑ではある。けれど最初から、大切な自分の半身が愛した者を、完全に毛嫌う事も、できなかった。
沈黙を肯定と判断したアッシュは苦しげな表情を浮かべ、
「……俺のこと、恨む気持ちは解る。ラズがジズから分裂した時、その場にも居合わせもしたし、内情も知ってる。だから……お前の気が済むなら、殴ってくれて構わない」
俯きながら覚悟を決めたように、下げていた拳を握りながらそう言った。
彼の言葉に、背を向けていたラズは半身に向く。目を伏せて沈黙する緑髪の人狼を、動揺した顔で眉を寄せ、しばし見つめた。
アッシュがラズにずっと伝えたかった言葉がこれだった。
己が最も愛した者の半身。その自分から存在する意味を剥奪した事を、彼はずっと――
強く吹く風が木々をざわめかせ、雨の匂いが通り過ぎる。
しばしの沈黙の末、
「――愚カ者」
長い睫毛を伏せて、短く、吐き捨てるように言ったラズに、アッシュは狼狽して顔を上げる。
「っ、ラ」
呼びかけた名を遮るように、彼は、
「貴様ガ傷付ケバ、ジズハ悲シムダロウ」
はっきりと、静かでいて力強くそう言った。その言葉に瞳を見開いて彼を見つめる。
「……ラズ」
てっきり、まともに相手などしていられぬと突き放す言葉だと思ったそれは、思いやりと優しさが詰まったものだった。
「貴様ノ役目ハ、ジズヲ幸セニスル事ダロウガ」
「……ああ」
軽く睨むように続けるラズ。その言葉は突き放すような響きではなく、諭すような、言い聞かせるような――紛れもなくラズからアッシュへ意志を伝える為に発せられた言葉だった。今聞こえるのは、風と、木々と、ラズの言葉だけ。
「私カラ ジズへ残サレタ役目ハ、ソノ“幸せ”ヲ護ル事ダ」
彼はその瞬間、ふ、と目を伏せ、酷く悲しげで寂しそうな表情を浮かべる。息を呑んだ。ジズならともかく、ラズのそんな表情は初めて見る。これまで彼が自分に向けてきたのは、気丈な、冷たい、近寄りがたい雰囲気だったのに、今のこれはまるで違う。
“負の感情の凝縮体”であるラズの、普段見せない側面――
「ダカラ、ジズガ悲シムヨウナ真似ハ御免ダ」
ラズは紅い瞳で真っ直ぐアッシュに向き直り、凛と、そう言いきった。
強く吹いてきた風が、金と緑の髪を靡かせる。
「………有り難う」
しばしの後、アッシュは少し掠れた声で言う。その言葉に軽く鼻を鳴らし、
「礼ヲ言ワレル筋合イハ無イ。ジズハ今、日々ヲ幸セニ過ゴシテイル。彼ガ幸セナラ、私カラハ何モ異存無イ」
言って、ラズは一つ息を吐いた。
そう。いいのだ。
彼が居るからジズが幸せで居られるのなら、何も言う事などない。もう恨む必要も、殺意を抱く必要も無い。
酷く空虚で、殺伐とした感情がラズの胸を満たしていた。
この男が居るからジズの幸せが在ると言うのなら、私は――
「…………ラズ、凄く優しいんだね」
「ナッ!?」
突然発せられたその言葉に面食らう。
いきなり何を言い出すのか。自分が死臭に満ちた“負の感情の凝縮体”であると知っているのに、一体何を考えての発言だ。
しかしアッシュはそんな胸の内など関係なく、微笑んで更に続ける。
「だってさ、それって――俺の身まで、案じてくれてるって事だろう?」
「――――」
その通りだから、今度は何も言わずにただ鼻を鳴らした。
ジズの幸せが維持されるように、ラズはこの人狼も護ろうと、ずっと以前から思っていた。
ジズとこの男に、危害を加えるものから自分が護ろう、と――
「有り難う」
「……勘違イスルナヨ。ジズノ為ダ」
「解ってる。でも、やっぱり嬉しいから。俺も、ジズには幸せで居て欲しいから」
「…………」
「有り難う。ラズ」
重く深く息を吐いて、半ば呆れたような目でアッシュを見やり、
「ジズヲ不幸ニシタラ、タダデハ済マサンゾ」
そう言ったラズに、彼はまた微笑むと一歩、歩を進める。
「ああ。だから――」
ふわり、と、彼の手が、ラズの頭を撫でた。
「ッ」
「ジズの事、もっともっと理解する為にも、ラズとも、仲良くしたいんだ」
ただ、硬直した。
「ラズは、まだまだ、俺が知らないジズの事沢山知ってると思う。ラズを理解しないと解らない事も一杯あると思う。だから――和解したい」
そう言って、気恥ずかしげに微笑んだ。
紅い両眼を見開いて息を呑む。彼の言葉が、ラズの中に力強い意志を持って流れ込んでいく。真に決心して伝えてきた想い。優しくも強い決意をした瞳を見返したまま、しばし時が流れる。
次いで――何故だか、ふっと、笑みが零れた。
「―――構ワンゾ。アッシュ」
どうしようもない奴だな。全く。
彼はしばしきょとんとした表情を浮かべたが、すぐに破顔した。
「ラズが俺にこんな風に笑ってくれたの、初めてっスね」
「カモナ」
「やっぱり、ジズにそっくりだ」
「ソウカ」
「ん。次会える時までに、美味い珈琲の淹れ方、極めておくっス!」
「フッ。一応覚エテオイテヤル」
そう言って、笑った。
直後、辺りが俄に明るくなった。
何? とラズが疑問に思った途端、これまで頭に乗せられていた手に髪を乱暴に掴まれて勢いよく引き寄せられた。
次の瞬間には首に深く牙が食い込み、血が溢れる感触がした。
体が仰け反って、倒れる前に空を映した瞳が見たのは――
風で流された厚い雲から覗いた、
満月――
*
「……おや」
気がつくと夜空が明るくなっていたので、バルコニーに出てみて感嘆した。
「今夜は満月だったんですねぇ」
一人呟いて、ジズは冷たい夜気を胸に吸い込む。ここ数日ずっと雨続きだったので、月の満ち欠けが解らなかったのだ。
まだ空を流れる厚い雲。それを照らす満月の青白い光はとても幻想的で美しかった。白っぽく浮かび上がる雲と、覗く藍色の空。全てを包む月光。
「………」
満月は好きだ。この光には心身が癒される。しかし、辛い思い出も温かい思い出も浮き上がってくる。
生前の記憶は絶対に忘れない。月光の浄化作用を信じ、その光を出窓から一杯に浴びていたあの頃。
例え右目の紅が消えなくとも、そうしている間は心がとても落ち着いていた。
仮面舞踏会と満月が重なった夜は、“彼女”と舞踏会を抜け出した。街の中心の煌びやかなランプの灯りから遠ざかり、闇に沈む路地裏を手に持った小さな灯りだけで歩いて――満月の光が彼女の金髪を煌めかせるのが、ため息をつきたくなる程美しくて、好きだった。強い金色ではなく、しかし薄すぎない……プラチナブロンドというよりは濃い色味の、とても繊細な金色だった。そんな彼女に、月光は恐ろしい程よく似合った。自分は死してから今まで、彼女と同じ色の金髪を見た事がない。あの繊細な色味の美しさは、きっと彼女だけが持って生まれた宝物だったに違いない。彼女と同じかそれ以上に美しい金髪をもつ者を、自分はまだ知らない。
―――ただ一人を除いて。
久しぶりに月を見たのに、このまま眠ってしまうのは惜しい気がした。折角晴れたのだ。多少風は強いが、久しぶりに夜の散歩に出かけよう。
そう心内で呟いて、ジズはポールに掛けられたマントに手を伸ばした。
ゆっくりと進むにつれ、胸騒ぎが足を重くしていく。
ジズは正体の見えぬ緊張を押し込めつつ、眉をひそめて前進していた。無音の夜気がぴりぴりと精神を嬲る。自然でない、異様な静寂がそこに広がっていた。
明らかにおかしい。
深夜の森には不釣り合いな事ばかりだ。
梟も、鼠も、その他夜行性の動物達が、皆一様に静かだった。姿どころか気配まで殺そうとしている。
まるで皆、何かに怯えているかのように。
けして姿を現すまいとするかのように。
何かから隠れるように――
「………っ!」
その時、ひときわ強く吹いてきた風に手で口元を覆い、身を折った。
この血の臭いは何だ!?
胸騒ぎは確信へと変わる。何か、とてつもなく悪い事が起きている。
暗く淀んだ森を睨む。満月の白い光は影を更に濃密にし、もはや不気味さしか与えなかった。
焦燥に駆られるように、ジズは風上に向けて駆けだしていた。
「――――――――え?」
立ち止まり、小さく掠れた声を漏らす。瞳を見開き、あり得ない物を見る目で前方にあるソレを見つめた。
最初、見間違いかと思った。
月光の下、木々の開けた地面に広がる、赤。辺りに満ちる生臭い血の臭い。
その中で何かに覆い被さっている、よく見知った姿。
―――アッシュ……!
血の気が退き、それと同時に一気に悪寒が背筋を駆け上がる。
何故。
満月の夜はいつも自室に閉じこもっている筈の彼がどうして!?
そこまで考えて、ここ連日の雨と、異様なまでにハードなスケジュールが何週間も続いていた事を思い出す。
確か明日は久しぶりの休みの筈。月の満ち欠けを計算できない程疲れていたに違いない。
ジズは戦慄してソレを凝視した。
一体今夜、何がこの緑の人狼の犠牲となったのだ。草が茂る地面に広がる赤い血は、満月に照らされて“ぬらり”と光っている。あの量の血はそこいらの動物を襲った程度の物ではない。
もっと大きな。
例えば――人間。
そう思い至った瞬間、ゾクッと悪寒が背筋を駆け上がった。
その考えを振り払い、情報を探そうと焦燥した顔で周囲に目を向ける。まだ彼はこちらに気付いていない。今の内に、できるだけ状況の整理をしなくては……
「……?」
血だまりから少し離れたところに、何かが落ちていた。
吐き気を催す程濃密な血気の中、眉を顰めながら目を懲らす。
肉を噛み切って咀嚼する音を必死で無視して、落ちているソレが何なのか凝視した。
飛び散る血で斑に汚れたソレは――帽子だった。
自分が持っているのと同じ型の、羽根飾りが付いた帽子。
赤黒く汚れた布地は僅かに白い色を覗かせていて――同じく血糊が付いた、風に揺れる羽根飾りは、青。
「っ!!」
嘘だ。そんな筈はない!
しかしそう心内で叫ぶジズの目の前で、緑の人狼は身を起こした。
口元から滴る血を手の甲で拭い、満足そうに笑みを浮かべる。完全に獣の目をしている彼の下に倒れているのは――
ラズ……
肌も、金の髪も血で汚し、ぐったりと瞼を伏せている自分と同じ顔。
引き裂かれた衣服は血で赤黒く染まり、無残に抉られた皮膚を晒している。
その様はジズの中で、“あの夜”の自分の姿をそのまま思い起こさせた。
忘れたくても忘れられない、出来うる限り思い出したくはない、あの、満月の夜――
駄目だ。
また……このままではまた、堕ちてしまう。
この場に聖なる気を持つ物は何も無い。ジズは決心すると幽体化して二人に向けて飛んだ。幽体化さえしてしまえば、人狼が自分に危害を加える術は皆無だ。今この場で叩くしかないと、唇を引き締めて霊気を放とうとした、その時。
人狼が物言わぬラズの顔を覗き込むように上体を屈め――
「――いいザマだよなぁ。“悪意の塊”」
完全に狂った嗤みを浮かべ、世にも愉しそうな声でそう言って、ラズの唇に付いた血を舐め上げた。
ごっ!
と空間に漆黒の薔薇の花弁が吹き荒れた。
〈そこに直りなさい!!!!〉
人狼の脳を直接震撼させる、怒りを濃縮させた叫び声。
次の瞬間、花弁の形を取ったジズの霊力は無数の大群となり獣を取り巻いた。
「っ!?」
人狼は一瞬ジズと目を合わせたが、その姿はすぐに花弁の波に呑まれて消える。そのまま遙か上空まで吹き飛ばされ、直後落下し、激しく地面に叩きつけられた。
「ぐっ」
目を見開いてくぐもった呻きをあげる彼に、ジズは容赦しなかった。
その一撃では獣の血で強化された体に大ダメージは無かったが、彼が身を起こすと同時に、霊力の花弁が荊へと形を変え、一気に絡みつく。その様はまるで、無数の蛇が一匹の獲物に一斉に襲いかかるようだった。
養分を吸い取るが如く、荊は体に触れたところから体力を吸い取り、むくむくと成長して太く大きく頑丈になっていく。体の自由を完全に奪い、筋肉に、骨に食い込むように締め上げていく荊の群れ。それにまかれた獣は瞬く間に体力を吸われて目眩を起こす。覚醒した人狼の体力は並ではないが、それよりも荊が吸収する速度が速すぎた。
僅かに弱った精神の隙間から、ジズは霊気を注ぎ込み、冷たく意識を奪っていく。
「……ぅ……」
荊の中で苦悶の表情を浮かべる彼に、ジズは怒りを称えた形相で、
〈もう眠りなさい!!!〉
叫び、霊気で精神を打ち砕き、更に大量の荊と漆黒の花弁で、頑強な肉体を押し潰した。
「―――――ぎゃああああああああああ――――!!!」
耳障りな絶叫を上げて、その場に落ちる獣。
〈…………………〉
数瞬後、無言で見下しながら花弁と荊を消し、ジズは彼が確かに失神しているのを確認した。夜の静寂は、自然な静けさを取り戻していた。空を見上げれば、月は再び迫っていた雲に隠れかけている。
また、倒れた彼を見下ろす。精神から侵したので、朝日が昇るまでは確実に目覚めないだろう。
〈………この……馬鹿アッシュ〉
傍らに浮かぶジズは、泣いていた。
静かに頬を涙で濡らしながら、失神した人狼を見下ろしていた。ぐったりと瞼を閉じ、返り血で服を汚し、その両手も真っ赤な獣。
月の魔力に侵され、豹変した愛しい恋人。
〈………っ〉
こんなの――あんまりですよ……
唇の裏側を噛んで俯く。
次いで、アッシュを攻撃したのとは別に、柔らかな花弁で包んでいたラズを自分の元に引き寄せた。
無残に食い荒らされた自分の半身。
“唯一彼女と全く同じ”金の髪も、白い服も、透き通るような肌も赤黒い血で汚され、完全に意識を失っている。
彼女と同じ色の、血で汚れた金髪。七百年前、血だまりが広がる路地に斃れた彼女の髪のよう。いや、今の方がもっと酷い。
最初、ラズが金の髪を持って生じたのは、ただ黒髪である自分と対極なためだと思った。しかし本当にそれだけなら、白髪でもおかしくない。本当の理由は――自分が“彼女”への想いを引き摺っているが故だった。でなければこれほど見事な、繊細な金色である筈がなかったのだ。それに気づいたのは、実につい最近だった。
そのラズは今、あまりに痛々しい姿で失神している。
引き裂かれた服は血で張り付き、生々しい傷口を際立たせる。直視するのも躊躇われる程の姿を、ジズは悲しみに満ちた顔で見つめていた。
あの夜と同じだ、と心内で呟く。
ラズの首には、傷口こそ治癒しかかっているが深く噛み付かれた血の痕が残っている。
一気に大量の血を失い、体の自由がきかなくなった。そこを――
〈……?〉
眉をひそめた。
あの夜の自分と同じように襲われたのなら、まだ反撃はできた筈だ。あの夜、自分はアッシュを傷付けないよう手加減した為に食われてしまったが、ラズなら――
疑念がふつふつと湧いてくる。アッシュを相手にラズが喰われたというのは紛れもない事実だが――釈然としない。
〈………どうして………?〉
どうして、彼は脱出できなかった?
手加減どころか、本気で殺すつもりで反撃する筈の彼が――
〈…………〉
不思議だが、今は悩んでいる場合ではない。
そう思考を振り払い、ジズはラズと共に舞い上がり、屋敷へ飛んだ。
血を拭い、服を替え、落とせなかった髪の血糊だけを残して、ベッドに寝かせたラズが目覚めたのは、日が完全に昇りきった頃だった。
彼はまず傍らに座るジズに驚愕し、次いで自分の状態を確認して、全てを悟った。
「…………ッ……」
「ラズ」
後悔と絶望に塗り潰された表情で、強く歯噛みするラズ。傷は完治しているが心は深く傷ついたままだ。
「スマナイ……ジズ……私ハ……ッ」
「どうして貴方が謝るのですか!!」
身を起こし、両手で顔を覆うラズを固く抱きしめる。部屋は不思議な程静かだった。二人の声と息遣いだけがはっきりと聞こえる。世界から隔絶されているような錯覚を覚える程、互いを強く感じていた。
やがてジズの背に回された手は、震えていた。
「……オ前ニ………コンナ……アンナ……!」
呻くラズにジズは、
「被害者は貴方でしょう! 私の事なんて――」
気にするな、と言いかけて、ある事に思い至った。
「……ラズ……貴方昨夜……反撃しなかったのですか?」
「――――」
無言で頷く彼に、ジズはゆっくりと抱きしめた腕を解き、正面から目を合わせて問う。
「何故?」
胸中に、ある仮説が浮かんでいた。しかしそれが本当なら――
「――ジズガ誰ヨリ愛シタ者ヲ、私ガ傷付ケラレル筈ナイダロウ」
こんな悲しい事はない。
抱きしめて、泣いた。
ラズに残された自分に対する存在意義は、自分の幸せを護る事。自分の幸せを維持する事。
自分の幸せが維持されるように、自分と、アッシュを護ろうとしていた。
彼は一言も自分達に言わなかったけれど、解っていた。ラズを見ていれば解るのだ。自分達を本気で護ろうという意志が、ジズには解っていた。
危害を加えるモノから自分が護ろうと。だから、己がアッシュを傷付ける事など――できなかった。
嗚呼どうして。
どうして彼はここまで傷つかなければならないのか。
自分から創られたために存在意義という枷に縛られ、苦悩し、傷付き、悲嘆する半身。
自分と同一の筈なのに。“同一”ならば“平等”でなければいけないのに。
半身の事など何も気にせず、彼が“自由”を手にする事はできないのか。
自分が創っておいて、なんて勝手な言い分だろう。
「……スマナイ」
「違う! 謝る必要なんか無い!! 謝らなければならないのは私です!!」
「ソンナ訳ナイ。ソモソモ私ガ抵抗デキテイレバ、ジズヲコンナニ悲シマセズニ済ンダ」
「ラズ……大好きです! もういいから!! もう自分を責めないで!!」
二人とも泣いていた。
大切な半身。負の感情の凝縮体。ずっと自分を護ってきてくれた。怒りも憎しみも恐怖も悲嘆も、全部背負ってくれた半身。
どうして、そんなに優しいんですか……
同じ顔の二人。片方は創った者。片方は創られた者。
固く抱き合い涙を流して、しばし時間が流れた。
やがて互いの嗚咽が収まった頃。
「………ジズ」
「なんですか?」
「頼ミガアル。コレダケハドウシテモ、聞イテホシイ」
「聞きますよ。何ですか?」
静かに言葉を交わすと、ラズは正面からジズを見据えて、
「今回ノ事、赤闇ニダケハ絶対ニ言ワナイデクレ」
そう言った。
「………え」
予期しなかった言葉に驚愕して言葉を詰まらせるジズに、ラズはとても苦しげな顔で続ける。
「頼ム。アイツニダケハ知ラレタクナイ」
「でもっ」
躊躇うジズ。今回の事は、ラズが最も大切に想う赤闇に対しても重大事件だ。今のラズを完全に癒せるのも、恐らく彼しかいない。その赤闇に黙っているなど、自分にとってもラズが大切な存在だからこそ、到底容認できるものではなかった。しかし――
「赤闇ガコノ事ヲ知ッタラ、アッシュニ何ヲスルカモ解ラナイ」
「っ!」
その言葉に息を呑む。
アッシュはしてはならない事をした。言ってはならない事を言った。
けれどそれは彼の意志ではない。月の魔力で覚醒した“獣”の意志。
だがそれでも――アッシュ本人である事に変わりはない。
「……………」
「コレ以上、ジズ ニモ アッシュ ニモ、傷付イテホシクナイ。赤闇ニモ心配ヲカケタクナイ。ダカラ……」
静寂が降りる。
そして暫くの後、
「…………………解り、ました」
きゅっ、と拳を握って、そう頷いた。
「――有リ難ウ」
「……いいえ」
アッシュの方が大切だとか、赤闇を騙そうだとか、そういった考えで頷いたのではなかった。ただ、ラズ、赤闇、アッシュ――それぞれについて思考を巡らせてみて、赤闇が実際にこの事を知った末にどう行動に出るかを想像したら、それが結果的にラズを更に追い詰める事に繋がるかもしれないという結論に達しての答えだった。
「…………髪ノ血糊ヲ落トシタイ。シャワーヲ借リテイイカ?」
「勿論。どうぞ。タオル、出しておきますね」
「アア……」
言って、ラズは酷く儚げに、悲しげに、笑んだ。
*
―――眩しい……
閉じた瞼から、強い熱と光を感じて、彼は薄く目を開けた。
高く昇った日の光は世界を明るく照らし、生命に温もりを与えていた。
ああ、青空を見たのは久しぶりだ。
ここ数日、ずっと雨だったから……
気だるく霞む思考でそんな事を思いながら、再び目を閉じて日の暖かさをじんわりと味わう。
頭の芯の方が妙に冷たい気がして、脳がうまく回転しない。体も重い。五感が冴えない。
深く深呼吸を繰り返す内に、だんだんと感覚が戻ってきた。
さえずる鳥の声。
体の下の地面の感触。
――濃い、鉄さびの臭い。
「!」
異変を感じて、今度はしっかりと目を開けて体を起こす。
「――――――――え?」
太陽の光に照らされた世界。その中で彼が――アッシュが見た景色。
自分の周囲の地面一杯に広がる、赤黒い血の染み。
飛び散った飛沫の跡。
散乱する、肉片と臓腑の欠片。
「………あ……あぁ……」
体が小刻みに震え、力が抜けていく心地がした。顔からは血の気が退き、深い絶望の色に染まっていく。
ゆっくりと視線を落として、自分の両手に目をやれば、べったりと血で汚れていた。
服も返り血で染まり、特に首もと近くは布の色が見えない程汚れている。
冷たい汗が浮かぶ。目を大きく見開き、両手を凝視する。
……何をした……?
自分は昨夜………何をした?
この血は誰の―――
強く風が吹いて、視界の端で何かが転がった。
目を向けてみると、それは帽子だった。普段よく見ている型の、羽根飾りがついた帽子。
血で汚れたソレは僅かに布地の色を覗かせていた。羽根飾りも、斑に汚れてはいるが本来の色が伺える。
白い布地に、青の羽根飾り。
ラズの、帽子――
「―――――――――――――っ!!!!」
瞬間、全てを思いだした。
記憶の濁流が脳内を駆け巡り、昨夜の全てが鮮明に高速に蘇っていく。
やっと、言えたんだ。
彼に。
顔を合わせて言えた。
恨んでいるかと。なら殴っても構わないと。
しかし彼は、自分とジズを護るから、傷付けるなんてしないと言ってくれた。
和解したいと言ったら、
『―――構ワンゾ。アッシュ』
そう、笑ってくれたんだ。
初めてだった。ラズのあんな笑顔見たの初めてだった。
ジズとそっくりな、優しい笑み。
やっぱり彼はジズと同じ存在なんだ。対極だけど、同一なんだ。
普段気丈に、強気に、冷たく振る舞っているけど、真意はとても優しい、愛しい人の片割れ。
自分を名前で呼んでくれたのも、昨日が初めてだった。
嬉しかった。
不安が一つ消えて心が軽くなった心地がした。
なのに――
彼の首に噛みついた感触。溢れる芳醇な血。瑞々しい肉。甘い内臓。
自分を傷付ける事などできないと言った彼は、反撃しなかった。
噛みつき、抉り出し、へし折り、弄んで……
いつしか彼が気を失った後も蹂躙して、喰らい尽くして――
『――いいザマだよなぁ。
“悪意の塊”』
「……あ……」
何てこと、言ったんだ。
俺はラズに、何てことを言ったんだ。
そう暴言を吐いた直後、彼に――
ああ、そうしたら、あの時、ジズが………
「あ……ぅ……うああああああああぁぁあああああぁぁぁぁあぁあああぁああああああああ――――!!!!」
両手で頭を抱えるようにして絶叫した。
直後、いつの間にか脇の森から覗いていた人物が、せせら笑うような声で、
「―――面白い格好してんじゃねぇか。お優しい偽善者さんよぉ」
そう言って、愉しそうに口の端を攣り上げた。
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