歪みの飛沫は月を辿って



「………………」
 深夜、ふと目を覚ましたラズはそのまま上体を起こし、ベッドから手を伸ばしてランプを点けた。茜色の灯りでぼんやりと照らし出された室内の時計で、時刻は午前零時を回った事を知る。何故だか妙に目が冴えていた。もう今夜は眠れそうにない。そもそも幽体化していれば睡眠など必要ないのだが、ここ最近は実体化している事が多くなったので数日に一度は睡眠をとっている。
 ジズは普段から好んで実体化しているが、ラズは以前までは殆どの場合幽体化して過ごしていた。それを解除する時と言ったら、教会を訪れた時に勝手に解ける時ぐらいのものだった。こんなに実体化している回数が増えたのはいつからだったろう。考えようとして、すぐに心当たりが浮かび、それを呑み込む前に考えを振り払った。認めたくなどなかったから。
「………ハァ」
 一つ息を吐いて、ベッドから降りる。
 窓に近づいてカーテンを開けると、雲が細く靡いている中で、ぞっとする程美しい満月が青白い光を放っていた。
 どうせもう眠る気はないし、夜もまだ長い。久しぶりに夜空の散歩に出るのも悪くないだろう。そう思って、ラズは服を着替えてから幽体化して浮き上がると、そのまま窓をすり抜けて、月光で藍色に照らされた夜空に泳ぎ出た。

 鳥も虫も寝静まった無音の夜空を、何処か憂いを帯びた表情で舞い飛ぶ。特に目的地がある訳でもないのに、散歩というには少し早いスピードで空を切っていた。
 何かに追われているような、何かを追っているような飛び方だった。
 ふと静止して、青白く輝く月を見上げる。どんなに上空を目指しても、月の大きさはちっとも変わらない。ただ無表情に見下ろす月を、ラズも又無表情に見上げていた。月光には浄化する力があるとされる。だが、今夜はどんなに月光浴をしても気分は晴れそうにない。
 目を覚ました時から、ラズは鉛のような息苦しさを胸の内に感じていた。正体の見えない不安が膨らみ、それが空を飛ぶスピードを早まらせた。
 軽く胸元の服を握り、目を伏せて思考を巡らせる。この不安の原因は何だったのか、記憶を探って間もなく、瞼の裏側で血の飛沫が上がるのを見た。
 ああ、そうか――
 ゆっくりと瞳を開けて、軽く息をつく。
 どうやら自分は先刻、あの過去の惨劇を夢に見たようだった。
 ジズと同じ記憶を、ラズもまた自分の記憶として抱えていた。負の感情の凝縮体であるが故に、その記憶はより鮮明に、より色濃く魂に染みつき、己を蝕み続けている。それを夢に見たのは初めてだったかもしれない。
 耳を劈く断末魔。
 肉を貫いた手の感触。
 吐き気を催す血の臭い。
 それらがじわじわとラズの脳裏に蘇ってくる。
〈………………ッ〉
 自分の体を抱くようにして、体を折った。あの日の記憶は鋭いナイフとなって身を切り裂く。しかし、以前のように過去のフィルムは脳裏を暴走しなかった。落ち着いて深呼吸を繰り返している自分が少し意外に思える。彼の心には、トラウマの濁流を流し出す糸口が新たに存在していた。心に、小さな余裕が生まれている。
 以前、分裂してからジズと再会したあの時は、胸中で荒れ狂う惨劇の記憶を制御できずに膝を折った。なのに今は深呼吸でそれを抑えられる。以前は無かった糸口の正体が何なのか、彼は漠然と理解していたが認めたくはなかった。それを認めてしまったら、自分は“自分”でなくなる気がしてならない。
〈!〉
 ふと、眼下の森の中に、月光に照らされた十字型の建物を見つけた。
 一瞬あれは何だったかと思考し、すぐにその存在を思い出す。
 始まりと終わりをもたらした、古びた小さな教会。あの場所で自分は元来の存在意義を失った。役目を追われた愚かな追放者になり果てた。かつて自分は懺悔や悲しみが胸の内に満ちてパンクしそうになる度にあの教会を訪れ、鎮魂歌と共に吐き出していた。そうしていないと、いずれ自分が壊れるような気がしてならなかった。悩みを打ち明けられる相手もいない自分には、そうする以外に心の整理を付ける手段がなかったのだ。愚かしい己には似合いの、滑稽な姿だったと思う。
 しかし、ここ暫くの間、ラズが教会を訪れる事はなかった。それどころか、今の今まであの建物の存在すら忘れていた。
 それは何故か。
 もう罪悪で胸が一杯で破裂しそうになるという状態が、最近は殆ど無くなっていたから。
 では、その原因は何か。
 胸中で渦巻く余りにも重いストレスを、少しずつ流し出せる糸口ができた理由は?
〈…………ハハッ〉
 片手で顔を覆い、自嘲気味な乾いた笑いを漏らす。
 自分は何を考えているのか。先刻も、認めたくないと心当たりを振り払った時点で、実は既に自分の本心に気付いている証拠ではないのか。
 少しずつ、ほんの少しずつ変わっている想いに、気付いているのだ。
 一体自分は何処まで罪深いのだろう。この世の何よりも穢れた汚物だ。存在理由の無いガラクタも同然だと解っていながら、それでも尚醜い願望を持つというのか。

 ――貴方も貴方の幸せを見つけて下さい

 あの日ジズが言った言葉が、出てきて欲しくないのに勝手に反芻される。
 もうやめてほしい。今より更に醜い汚物にはなりたくないのだ。

 ――お前がこれから在り続ける為の新しい理由に、私がなってみせよう

〈………………クッ〉
 ギリッと奥歯を軋ませて顔に爪を立てる。
 今思い出してはいけない“彼”の言葉が、また勝手に頭蓋の中で木霊する。
 もう、充分なのだ。
 もうこれ以上自分を堕落させるのも、絶望を味わうのも御免なのだ。これ以上堕ちたくはない。これ以上、少なくともジズの片割れという肩書を持つ自分が落伍して、ジズの名に泥を塗りたくない。
 今以上に自分を苦しめないでほしい。愚かしい姿など晒したくないのだ。今まで通り無心に過ごしていければそれで良いのだ。ジズが幸せでいてくれればそれだけで良い。ジズの幸せを維持していく事だけが、自分に僅かながら残された使命なのだ。それ以外は望めない。強欲な醜態になどなりたくない。もう誰も自分に構わないでほしい。できる事なら、今この場で誰にも見咎められないまま消えてなくなりたいのに――
 両手で頭を覆い、身を捩る。一体自分の世界は何処から狂いだした?
 ジズがアッシュに出会ってから?
 分裂した日から?
 自分の前に“彼”が現れてから?
 いや、己が創られたその瞬間から、全てが狂っていたのだ。
 右手がそっと、顔に張り付いた黒い半仮面に触れる。その瞬間、これまで荒れ狂っていた思考が冷え、その代わりに静かな殺意が、ざわりと胸の内に湧き上がった。
 他の誰にでもない、己に対しての冷たい殺意。
 ラズは無言で仮面を外すと、そのまま異次元に送って手から消す。また必要になったらすぐにでも手元に戻す事ができる便利な力だ。霊なら誰でもできる能力である。
 そうして露出した、深い血色の右目で天を仰ぎ、青白い月を見つめる。
 月光に照らされる顔に、その両眼はより鮮明に色彩を持って光っていた。
 冷たい無表情のままラズは右目に手を添え、そっと指先に力を込めた。
 これまで、一体何度この右眼を抉った事だろう。もう回数は覚えていない。あの教会で鎮魂歌を唄った後に抉る事もあったし、独りきりの時に唐突に抉る事もあった。実体化していれば失神する程の激痛を伴うが、一晩経てばどんな傷も再生する。どうしても自分が許せなくなった時、罰としてこの忌まわしい右眼を抉ってきた。自分が“罪”そのものである証の右眼を抉る時、激痛と悲嘆と共に僅かな安堵を覚える事ができた。一晩経つ間までは、自分から“罪”の烙印が消えていると思えるから――
 最近では抉るなど全くしなくなっていた。だが今はもう、そうしないと自分を抑えきれない。そうしなければ、自分は心の片隅に生じた小さな想いを、更に意識してしまう。
〈――――――フッ〉
 この行いも本当に愚かだと思う。だが自分には、もうそうするしかないのだ。
 一拍置いて気持ちを引き締め、その細い指先に、思いきり力を込――

〈やめておけ〉

 強く手首を掴まれ、そのまま引っ張られて瞳から遠ざけられた。
〈一晩経てば再生すると言っても、お前の顔が血で汚れるのは頂けないな〉
〈――――何故……ココニ〉
 いつの間にか背後に立っていた赤闇には顔を向けず、ただ瞳を見開いて小さく呟いた。
〈夜空の散歩だ。今宵は月が美しいからな〉
〈ッ〉
 腕を振りほどこうとするが、赤闇は強く握ったまま離そうとしない。
〈離セ〉
〈抉らないか?〉
〈シナイカラ離セ!〉
 ようやく手を離した赤闇から逃れるように距離をとり、露出したままの右顔に再び仮面を着けようとした。が、

〈やはり、お前は右目も赤かったのだな〉

 息を呑んだ。
 やはり既に見られていたのか。ジズと対極でありながらその右目は青ではなく、正に“罪”から生まれた存在だという証である深紅の右眼を。
 彼にだけは、見られたくなかったのに。
 あの緑の人狼は、ジズの右目を見て綺麗だと言った。ジズは自分の右目に対して初めて言われた言葉だった為に、強い驚愕と嬉しさを感じた。しかしラズにとってのこの右目は“罪の子”である証以外の何物でもなく、それに対して“綺麗”などとは絶対に聞きたくない言葉だった。自分にとっては忌々しいだけの右目に、軽々しく美意識を持ってほしくない。
 赤闇は、何を感じただろう。
 綺麗とだけは言われたくない。それならばいっそ“醜い血色”と言われた方がマシだ。先程彼は『やはり』と言った。自分の右目が赤だと予想していたのか。千年彷徨ってきた悪霊であるが故に、彼は膨大な知識を持っているのだろう。
 彼は何を感じた?
 予想した通りの色を持つ右目を見て。
 “罪の子”の証である深紅の右目を見て。
〈……残念だな〉
〈ッ!〉
〈お前はやはりまだ、その右目を罪の証だと忌々しく思っているのだろう?〉
 静かに紡がれる赤闇の言葉に、唇の裏側を少し噛んだ。
 彼は何が言いたいのだ? その通りの事をさらりと言ってのけて、これから彼はどうしたいのだ?
 しばし、沈黙が降りた。静かに見つめる赤闇と、俯いて拳を握るラズ。そんな二人を青白い満月が無言で見下ろしている。
〈――私が、消してやれたらいいのだがな〉
 ポツリと呟いた彼の言葉に、ラズは訝しげに眉を顰めた。言葉の意味を理解する前に、更に言葉を綴る。

〈例えば傷口から毒を吸い出すように、お前の右目の赤も、私が吸い出せたら良かったのにな〉

〈……エ?〉
 問い返した瞬間顎を指先で持ち上げられ、反射的に閉じた右の瞼に、そっとキスが降りた。
 そのまま抱きしめられ、しばし先程の言葉が頭の中で何度も木霊して、軽い眩暈をおこしそうだった。それでも何とか彼の体を手で押しやるが、赤闇の腕はしっかりと自分を抱いたまま解けない。
〈離セ……〉
〈離さん〉
〈離セト言ッテイル!〉
〈今離せば、お前は二度と私の前に姿を見せてはくれなくなるだろう〉
 耳元でそう囁かれて、胸の詰まる苦しさがこみ上げてくる。
〈――モウ……放ッテオイテクレ。コレ以上私ニ構ウナ!〉
 振り絞るような叫びが赤闇の頭蓋に響く。しばし逡巡した後、彼は突然ラズの腕を掴むとそのまま一方的に引っ張って夜空を飛んだ。
訳も解らずうろたえるラズには構わず飛び続け、数分が経過したところでやっとその手を離した。
〈何ナノダ一体!?〉
〈降りろ〉
 怒鳴るラズに構わず一言そう言って、自分はさっさと実体化して地上に降り立つ。面食らうラズだが、一つ息を吐いてから同じように実体化して彼の隣に立った。
「…………!」
 その場の景色を見て、息を呑む。
 そこは街から遠く離れた山の上の、大きく開けた丘だった。
 満月の青白い月光が夜空を明るく照らし、木々を銀色に映し出している。夜空は満月が占領し、星々は月の輝きに負けて主張できないでいるが、その代わりに遠くに広がる街の灯りが地上の星となって、絶えず輝いていた。
 無音の夜の中を、風が吹いてラズの金髪を、赤闇のマントを、二人の羽根飾りを空に泳がせる。
「――――美しいだろう」
 ポツリと呟く赤闇に、顔だけ向けて訝しげに眉を顰める。
「我々が今存在しているのはこの世界だ。完璧な霊界でも人間界でも、七百年前の過去の世界でもない。それが現実だろう」
 黙ったまま、言葉の続きを待つ。
「お前は今、何を介して今の光景を見ている? その両の瞳以外に、何か間に介しているか?」
 問いかけ。その真意が解らず、ただ困惑した面持ちで彼を見返す。そんなラズに、赤闇は、ふっと笑った後、
「何も介していないだろう。お前はもう、ジズの中からこの光景を見ている訳ではない」
 言って、静かに向き直る。
「もう、お前はお前だ。こうやって一個体の存在になった以上、己を“個人”として見なくてどうする? 片割れだからと存在意義に固執していて何になる? そもそも、この世に生きる者達の、一体何割が己の存在意義を自覚していると言」
「軽々シク言ッテクレルナ!!」
 身を切るような叫びが、夜空に響いた。
「私ハ……普通ノ者達トハ違ウ」
 俯き、震えの混ざった声で、静かに言葉を綴る。
「コウシテ縋ルヨウニ……存在意義ニ固執シテ在リ続ケルヨウニデキテイルンダ! 自分ハ自分ナドトイウ考エナド持テナイ……。私ハ“罪”カラ生マレタ存在ダ。コノ右目ガ嫌デモ思イ出サセルノダカラ!」
 頼むから放っておいてほしい。
 これ以上愚かしい存在にはなりたくない。
 本当は気付いているのだ。心の片隅に生じた“想い”に。しかしそれを認めてしまったら、もう取り返しがつかない。自分でも充分崖っぷちに立たされている事は解っている。だからこれ以上押さないでほしい。堕ちてしまったら、もうラズは“ラズ”でなくなってしまう。
「――すまないな。ラズ」
 俯いていた頬にそっと指を添えながら、静かに言う赤闇の言葉に、身を固くした。
 だが――

「その右目の赤を私が消してやれたなら、お前は自由になれただろうに……」

 それを聞いた瞬間、これまで必死に心を塗り固めてきたモノが、次々に砕けて胸の奥深くに落ちていった。瞳を見開き硬直するラズの頭の中で、また今の言葉が木霊する。
「どうにもしてやれなくて……すまないな」
「――――ナ……ニ……」
「だがそれでも、私はお前を望む」
 添えていた指から掌全体で頬を包まれ、顔を上げられて正面から赤闇と視線がぶつかる。驚愕の色を浮かべるラズを、赤闇はただ真剣な面持ちで真っ直ぐに見つめた。
 夜風が、二人の間を通り抜ける。
「この右目の赤を消してやる事はできないが、私はお前と共に居る事を望もう。以前にも言ったが――」
 ラズの右顔にかかった長い前髪を指先でよけながら、彼は言葉を綴る。
「お前がどうしても存在意義に固執して、それを必要とするのなら、お前という存在が在る為の新たな理由に、私がなってみせよう」
 息が詰まった。
 もう、聞いてはいけない、思い出してはいけないと感じていた言葉を、彼はまた自ら口にしてしまう。
 もう、限界だ。
「今の自分は存在意義を失った愚か者だと思っているのだろう。なら、別の理由を糧に在れば良いではないか」
 深い切れ長の瞳に見据えられながら、彼の言葉の一言一言で心中が掻き乱れ始めた。
「これまでの七百年は、お前はジズの為に在った。そしてこれからは、私の為に在るで良いではないか。私もお前だけの為に在ろう。ずっとそれを望んできたんだ。もう退かない」
 これまで必死に隠してきた“想い”が、溢れだす。
 あの時のジズと同じなのだ。
 駄目だと、解っていた。
 だから蓋をして、見ないふりをした。
 厳重に鍵をかけて心の奥底に沈めてしまった。
 しかし彼の言葉で鍵が外れて蓋が開いて、溢れだす。
 何度も何度も蓋をして、溢れだしたモノを押し込めて、それでもまだ溢れだして。
 もう、気付いてしまった。
 それはいつからか――恐らく、あの雨の日に。
 自分の本心に、気付いてしまっていたのだ。
「七百年も待ったんだぞ。私の気も収まらん。後悔はさせない」
 頬に添えられていた手が、顎に移動して持ち上げる。
 月光が、丘を白銀の世界へと塗り変える。

「私を選べ。ラズ」

 真っ直ぐ自分を見つめたまま、彼は言った。
 もう充分だと思っていたのは、単なるエゴなのか。
 無意味な意地だったのか。
 それとも、未だに“ジズの偽者”という概念に縛られた思考が生みだした、己を護る為の虚像なのか。
 答えは、多分それら全てだったのだと思う。
 ジズはあの人狼に対する自分の想いに、最終的には向き合って受け入れた。そして彼は今の、新しい“幸せ”を手にしている。
 彷徨い続けてきた七百年が、あの人狼に出会う為のモノだったとしたら、全ては無駄ではなかったと。
 彼は神の慈悲に感謝し、受け入れた。
 罪を犯し、禁じられた契約まで交わした己にまで与えて下さった慈悲を、受け入れずに拒否するなどこれ以上ない罪だと。
 同じように、思っても良いのだろうか。
 全ては彼に――赤闇に出会う為だったのなら、自分が創られたのは間違いではなかったと。これまでの時間も、これからの時間も無駄なんかじゃないと。
 こんな醜い負の感情の凝縮体にさえ、神は慈悲を与えて下さったのだと、そう思ってしまって本当に良いのだろうか。
 結局、その真偽は誰にも解らないのだろう。こんな思考こそ、ただの悪足掻きなのだ。
 もう、気付いてしまったから。
 どんなに悪足掻きをしたところで、この感情は騙せない。

 胸の内に溢れる想い

   過去の惨劇とその結果

 ジズが自分から離れんとしている事に気付いた時の動揺
    そして無駄だと解っていても足掻いて繋ぎ止めようとした愚行
 
  結局分裂して
   存在意義を失った己の無意味さ
   彼が現れてから変わりだした自分の世界

 ――――それら全ては
         今この時の為ならば

 彼に抱かれて涙を流しながら、唇を重ねていた。
 その背にしっかりと腕を回し、彼の服を強く握りしめて。
 存在を確かに感じた。
 彼は自分の右目を見て、醜いでも綺麗でもなく、ただその色を消してやれない事を悔いた。
 赤い色を消して、自分を自由にしてやれない事を悔いてくれた。それだけでもう充分だった。それ以上、自分を想ってくれる言葉があっただろうか。大声で泣きたくなるような衝動だったのだ。嬉しさと安堵と切なさと、それら様々な感情がグチャグチャに入り混じって、結局正体が解らないような感情の濁流。
 負の感情の、凝縮体の筈なのに。
 唇を離して、それでも強く抱きあったまま、
「――………ニ……居タイ……」
 赤闇の胸に顔を埋めて、か細く、掠れた声が胸の内から喉を伝った。
「……ラズ?」
 風の音にさえ掻き消えてしまいそうな呟きに問い返す赤闇。
 ラズは顔を上げ、涙で濡れた瞳で真っ直ぐ彼を見返した。
 自分は、元来愚かしい悪意の塊の筈だった。

 しかし、これが
      “自分”の本心――

「オ前ト一緒ニ居タインダ! 赤闇!!」

 叫んだ。
 その時初めて、今の彼の名を呼んだ。
 やっと吐き出した本心。もうずっと以前から気付いていたのだ。
 心の片隅に生じた想いに、最初は見ない振りをして、長い長い時間をかけて受け入れる。やはり、ジズと同じなのだ。自分達は、元は一から生じた二つの存在。ジズはラズでもあり、ラズはジズでもある。解ってはいたが、認める事を拒んでいた。しかし結局ここまで同じだと、何故だか内心で笑えてしまった。
 溜め込んでいた心の叫びは夜空に響き、夜気を振動させた。
 瞬間――

「それが……お前の本心なのだな」

 ざわりと、大気が“歪んだ”。

「―――ッ!?」
 その変化に瞳を見開いて硬直するラズに、赤闇は更に言う。
「お前は本心から、そう言っているのだな」
 低く、背筋の凍るような響きを持った彼の声。赤闇は抱いていた腕を解いて、ただ冷たく自分を見下ろした。
「セ……キ……オン?」
 驚愕と困惑をその顔に浮かべて、ニ、三歩下がる。明らかに先程より大気の温度が急激に低くなっていた。皮膚が粟立ち、全身の体毛が総毛立つのを感じる。
 先程まで二人を照らしていた月は、いつの間にか迫っていた雲に覆われ、光を閉ざした。
 前髪の奥で光る冷たい瞳と目が合って、瞬間、ゾワリと悪寒が背筋を駆け上がる。
 底の見えない、威圧感。
 自分を抱いてくれていたつい先程までとは明らかに変わった彼の気配。それを全身で受けながら、耐えきれずにまた数歩下がる。
 実体化した時のみ存在する、偽りの心臓の鼓動が激しく高鳴り、体中に響き渡った。息苦しさに、呼吸も徐々に荒くなる。瞳を見開き、目の前の相手を凝視する。乾いて貼りついた喉で、無理矢理に生唾を呑み込む音が、嫌に大きく響いた。
「お前は、本心から私を愛しているのだな?」
 底なしの瞳で見据えながら呟き、ラズに向って一歩を踏み出し、ラズは一歩後ずさった。
 冷たい汗が浮かび、体が小刻みに震え始める。
 今の赤闇に対して、ラズという存在を構成する感情の内の一つ――“恐怖”が、警報を鳴らした。
 何故?
 その理由を探ろうとする理性は、やがて恐怖に蝕まれて停止する。
 彼の、赤闇の全身から醸し出される冷たいオーラが、遂に体の自由をも支配する。これ以上、動けない。
 足は棒が入ったように微動だにできず、ただ僅かに残った理性で恐怖を受けとめる。
 冷たい汗を冷たい夜気が撫であげ、無音の夜が大気の均衡をじぃっと見守る。
 月光が閉ざされた、暗い丘。

 静寂。

 血の気が退き、完全に青ざめた顔で、目の前の彼から視線を外せず、ただただ凝視した。
 赤闇に対して、自分が酷く怯えているのが解る。だが、何をどうすれば良いのか解らない。

「――お前も、私の物だな」

「―――――ッ!!」
 戦慄した。
 これまで全くの無表情だった彼が、口の端を思い切り引き攣らせた。
 それは、これまで自分に見せていたどんな笑みとも違う、完全に狂った狂気の嗤いだった。
 三日月型に歪められた、壊れた嗤み。
 彼の言葉には、その内側に怖気の立つような期待と喜びと興奮を感じられた。明らかに、自分には大きな害のある期待。
 世にも楽しそうに、狂った嗤いを浮かべる赤闇に、ラズはこれまで忘れかけていた事を、身をもって理解した。

 彼は、悪霊なのだ。

「待ちわびたぞ。これでようやく準備は整った」
 奇怪な嗤みで唸るように呟き、また一歩近づく赤闇にラズは、今度は後退できずに硬直する。
 彼の言葉が理解できなかった。しかし、そんな事は赤闇にとってはどうでも良い事だ。
 夜風が、頬を嬲る。
「赤……闇………」
 震えの混じった声で、小さく呟く。
 その血のように赤い両の瞳で、目の前の赤闇を凝視する。
 汗の雫が流れて頬を伝い、顎を通って落下する。
 その一粒の雫が胸の前を過ぎ、足を過ぎて地に落ちた。

 瞬間――

「ッ!?」
 突然前に突き出した赤闇の掌から、真赤な炎と鈍色に光る長い鎖が飛びだし、あっという間にラズを縛り包み込んだ。
「アアアアァアアアアアァァァアァァァァァァァ!!!!!」
 目の前が炎で真赤になった。
 まるで聖物に触れた時のような激しい熱を鎖に感じ、鎖の熱と紅蓮の炎の熱さに口腔から絶叫が迸った。
 足を、腕を、肩を、首を焼けつく鎖で拘束され、渦となって燃え上がる炎に巻かれる。

 炎で髪を結っていた紐が焼き切られて、その長い金髪が紅蓮の中に踊り、ラズはその僅か数秒で、意識を失った。


「――――!」
「如何しました? ジズ様」
 深夜、屋敷で人形を作っていたジズは、突如胸を襲った衝動に思わず顔を上げた。
 その様子に、紅茶を持ってきたシャルロットが不審に思って声をかける。ジズは表情を歪め、顔を伏せて胸のあたりを手で撫でた。
「…………ラズ?」
 ぽつりと呟く。何故か、その瞬間彼の顔が脳裏に点滅した。
 何だろう?
 今の、激しい、不安。
「ジズ様?」
 心配そうに再度声をかけるシャルロットに、ジズは数瞬後、思考を振り払って笑顔を向ける。
「……何でもありませんよ。お茶を有難うございます」
 そう答えて、紅茶を受け取った。
 たった今感じた酷い胸騒ぎが、俗に言う“虫の知らせ”という奴だとは、ジズはその時、少しも思わなかった。


           

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