――カツーン、カツーン、カツーン

 しんと静まった屋敷に、階段を下る靴音が大きく響いていた。
 あの丘からは遠く離れた、山の頂に聳える大きな屋敷で、その靴音は怪しく響いていた。
 深い奈落の底に通じるような長い階段を、壁に取り付けられた燭台に刺さった蝋燭の小さな明かりだけが、弱々しく照らしている。
 暗く、混沌とした地下室へ――儀式場へと続く階段を、赤闇はゆっくりと下っていた。その口元を三日月型に引き攣らせ、狂った奇怪な嗤みを浮かべながら、彼はゆっくりと地下へと向かっていった。
 そんな彼の腕には、体を鎖で縛られ、ぐったりと喉を仰け反らせて、細く美しい金色の髪を宙になげだした青年が抱かれていた。固く閉じられた瞼から、長い睫毛が蝋燭の灯りで顔に影を作る。息を呑む程の美貌を湛えた彼は、ゆっくりと、これまで何十人もの供犠がそうされたように、地下へと運ばれていった。
 否、これまでの供犠と違う点が一つあった。
 それは、これまでなら地下へ運ばれる時、彼の下僕の死霊達が運ぶか、自身の霊力で空中移動させていたという事だ。わざわざ労力を割いて腕に抱くなどこれまではあり得なかったが、今回何故そうしているのだろう。ふと考えてみたが、特に意味は無いだろう。ただ間違いなく、彼は最後の供犠になるだろうからその記念にか、あるいはささやかな敬意でか。どちらにしても、どうでも良い事だ。
 千年前から追い求めてきた野望が、今夜やっと果たされる。
 これで、自分はやっと元来の名を取り戻し、己の存在、意思、形をより鮮明に確実にする為の鋳型を得る。名を失った事によって、少なからず弱まった力を取り戻し、更に強大な力を得る事ができる。
 自分は孤高の魔術師にして永遠の探究者だ。
 魔道の道に終わりはない。自分はこれからも、遥かな高見へと限りなく昇りつめなければならないのだ。
 ある一つの道を極めるのに、人間の一生などほんの一瞬にすぎない。そう悟ったからこそ、自分は千年前のあの日に“生”を捨て、永遠の刻を手に入れた。これから更なる高見へ昇るには、真の名を取り戻さなければならないのだ。
 腕の中で瞼を閉じたままのラズを、冷たい瞳で見据え、更に口元の嗤みを濃くした。
 この“悪意の塊”ならば、今度こそ名前を取り戻せる。
 これまでの生贄はどいつもこいつも、磨きをかけたところで大した質にもならないクズばかりだった。それでも数を増やせばいずれはどうにかなるかと試みてきたが、どうにもあと一歩のところで止まってしまっている。
 しかしコレなら――この、一人の人間が他人と己を殺し、更に悪魔と禁断の契約を結ぶまでに至った憎悪の塊ならば、生贄にするにはこれ以上ない程の上玉だ。
 やっと、コレは自分の手中に収まった。
 全ての準備が整った。
 おぞましい期待に胸が踊る。赤闇が唯一喜びと愉しさと興奮とを覚えるこの時を、じっくりと味わう。だがその瞬間、ふとこれまでラズと共に珈琲を飲んだ時の映像が脳裏で瞬いた。少しちゃかすと柄にもなくムキになって怒鳴るラズに、つい吹き出して笑ったりもした。そう。笑ったり――
「…………」
 眉を顰める。
 自分はその一時に、小さな“楽しみ”を感じてはいなかっただろうか――?
「――――愚かな」
 嘲笑気味にそう呟き、考えを振り払う。
 “儀式”に臨む時以外に、自分がそのような感情を抱く筈がない。
 余計な邪念は断ち切らねばならない。これから、神聖で邪悪な魔術儀式を執り行うのだから。
 
 カツンッ

 最後の一段を、下り終えた。
 そして重厚で禍々しい空気を放つ扉に手を掛け、力を込めて押し開ける。
 扉は蝶番を軋ませて耳障りな金属音を響かせながら、ゆっくりと開いていった。
 暗く、冷たい地下室が、口を開けた。
 深く息をしてから、冷たく鋭い瞳で、その“儀式場”を見据え、むき出しの地面に足を踏み出す。
 魔術儀式において、余計な邪念は一切持ち込んではならない。そんなモノを抱けば途端に術は緩み、悪魔が暴走して攻撃されてしまう。鉄の精神をもって儀式に臨むのだ。失敗は、己の誇りと魂に懸けて許されない。
 ゆっくりと、暗欝で怖気の走る禍々しい儀式場の中央部に歩み寄り、ラズを一旦地面に置く。背後で扉が閉まる音を聞きながら、暗い儀式場に備えられた百本余りの蝋燭に霊力で火を灯した。茜色の灯りが、儀式場を照らしだす。
 ここで、魔術儀式の第一段階である“祓い”を行わなければならない。自己の霊的不純物を一切消去しなければ儀式に臨めない。部屋の最奥部に鎮座している祭壇へと歩み寄り、そこで儀式に必要な物品を手に取った。ソロモンのヘキサグラムにペンタグラム、これから呼び出す悪魔の紋章が彫られた金属板。そして短剣、杯、黒い水盤等を持って中央部に戻る。短剣以外を地に置き、東の方角に向き直る。“カバラ十字の祓い”の始まりだ。
「――――我が前にラファエル、我が後ろにガブリエル、
           我が右手にミカエル、我が左手にウリエル――」
 低く、魔術独自の呼吸法も加えて紡ぎだされる聖句が、その場の空気を震わせた。
 短剣で十字を切り、続きの聖句も読み上げて守護天使を降ろす。これをしなければ非常に危険だし、万が一の時の保険がなくなる。魔術において手順は重要だ。些細な行為でも無視してはいけない。
 次いで、手前に魔法円を敷き、更に聖句を唱えて天使の加護を受ける。これで“聖別”の儀式も完了だ。次はいよいよ悪魔召喚に乗り出す。
 己の中に湧き立つ興奮を鎮めながら、魔法円から少し離れた中央部に、ソロモンの魔法の三角形――マジック・トライアングルを記し、その中央に水盤を置き、手前に鎖で縛られたままのラズを横たえさせた。
 ――悪魔に捧げる生贄にする為に。
 魔法円は儀式中術者を護る結界となり、マジック・トライアングルは悪魔喚起の入口となる。
 準備は、整った。
 ラズの魂を生贄に、己の名前を取り戻す。ラズが悪魔に喰われれば、今どこかに居るであろうジズも消滅するだろうが、そんな事は全く関係なかった。ジズが消えようが成仏しようが、構いやしない。自分の利害に関係しない物に興味など皆無だ。全ては、己の野望の為に――
 深く息を吸い、召喚呪文を呟きだした。

「――我は、汝を召喚す、
     おお精霊プルソンよ、至高の天主より力を持ちて、我は力をこめて汝に命ず……」

 これから召喚せんとする、第二十番目の悪魔、大王プルソンの紋章を掲げ、低く低く呪文を紡ぎ出す。
 プルソンはあらゆる隠された物を知り、財宝を発見し、過去、現在、未来の出来事を告げる。また地上、秘密、神、世界の創造などについても伝える事ができる。
 この悪魔なら、過去に失われた名前を取り戻せるだろう。更に階級は、昔名前を奪った悪魔より上の大王。過去に奪われ、隠された真の名を、今度こそ取り戻す。

「ベララネンシス、バルダキスンシス、バウマキア、アポロギアエ、セデスによりて、
  最も強力なる王子ゲニイ、リアキダエ、及びタタールの住み家の司祭によりて、
     及び第九の軍団におけるアポロギアの第一王子によりて、
    我は汝を召喚す。………」

 低く低く紡ぎだされる、悪魔召喚の聖句。一語一語が地下室の空気全体を震わせ、歪めていった。大気が無音のざわめきを起こし、赤闇を中心に広がって空間を満たす。肌にまとわりつくような冷気が、マジック・トライアングルへと凝集していく。
 明度を下げる蝋燭。
 赤き魔術師によって、徐々に地下室は変質していく。
 流れるように、独特の響きを持って詠われる呪文。その言葉に呼び起されるように、トライアングルの中央に据えられた黒い水盤を中心に“気配”が滲みだした。
 皮膚が粟立ち、常人ならば発狂するような禍々しい目に見えぬ“気配”が、そこには確かに存在していた。真に魔道を極めた者でなければ及びもつかない存在が、彼の手によって混沌の世界から喚起されようとしている。地面の砂が少量巻きあがり、次いで水盤から、冷たい靄が立ち込める。水面には何も触れていないにも拘わらず波紋が起こり、湧き上がる靄はトライアングル上でわだかまり、徐々に密度を増して集積していった。
 空間が、恐慌する。
 頭蓋の中で、甲高いトランペットの音が割れるように鳴り響いた。その音を幻聴しながら、期待に胸を膨らませる。

 その、魔界の大王“プルソン”降臨のファンファーレに。

 靄が、高い天井近くまで聳えて渦を巻き、緩み、拡散し、また凝集して、尚湧き上がる靄を取り込みながら高く大きく形状を成していく。
 獣のような、しかしどんな獣のそれとも違う、低く鋭い地響きにも似た雄々しい咆哮が、地下室に反響した。身を切るような冷たい邪気が、空間を満たす。

 靄を纏い、輪郭を霞ませ、獅子の頭をもたげて、悪魔“プルソン”は赤闇の前に姿を現した。

 この悪魔なら、今度こそ成功する。しかし気を緩めてはならない。鉄の意思を持って悪魔に命じなければ我が身が危ない。悪魔が喚起されてからが勝負だ。
 左手に杖を、右手に短剣を持ち、胸の前に杖を、頭上に短剣を掲げる。
 目を閉じ、深く息を吸い込む。
 これまでの膨大な時間は、全て今この時の為に――
 瞼を開け、冷たい左眼と、仮面の内側の無き右眼で悪魔を見据える。
 冷たく怖気立つ、禍々しい魔界の空気の中、赤き魔術師は再びその声帯を震わせた。
「――おお精霊プルソンよ! 汝は我が求めに応じて現れたり。いと高き御方の名において、我は汝に命ずる。大宇宙の意思に従い、我が命に応じよ! ………」
 これまで幾度も繰り返してきた“命令”の儀式。
 自分の魂が弱いとは、少しも思っていない。己は悪魔を従え、命令を遵守させるだけの“力”を持っていると固く信じなければ魔術師として失格だ。悪魔を前にして、決して意志を弱めてはならない。
 この七百年を無駄にしてなるものか。千年前に失った叡智を、今宵こそ再び手にしてみせる。
 そう心内で野望を確認し、ちらりと、悪魔の前で横たわる白い供犠に視線を向けた。
 鎖に縛られた痛々しい姿で、これから自分がどうなるのかも知らず、ただブロンドの長い髪を、少し湿った黒い地面に投げ出して両の瞳を閉じていた。
 あまりにも無垢で純粋な、“感情の凝縮体”。頑なに己の意義を貫き、己を傷つけながら立ち続けていた、何よりも哀れで愚かしい存在。
「――っ!」
 刹那、胸の内から正体の見えないモノがこみあげた。それを無理矢理に喉元で押し留め、慌てて意志を研ぎ澄ます。
 自分は何を考えている? 赤き魔術師、血の反逆者と恐れられた自分が、悪魔を前にして余計な思考を抱いているのか。一歩間違えば、悪魔の牙に斃れるであろう状況下で何を愚かな事を。
 赤闇の中で、焦燥が生まれた。
 これまで何回も繰り返してきた儀式なのに、小さな躊躇いを感じている自分を認識してしまった。じっとりと脂汗が滲み出す嫌な感覚を、奥歯を噛み締めながら黙殺する。
 いけない。
 悪魔の前で少しでも意志を弱めれば、悪魔は命令に従わずに術者を襲う。この緊迫した状況で、一瞬の隙も作ってはいけないのだ。“赤闇”という今の名前ともじきにおさらば。本当の名前を取り戻して、更なる力を得るのだ。ここで止まる訳にはいかない。この儀式の成功以外に、今考えるべき事は何も無い!
 こみあげる感情を切って捨て、一切の邪念を打ち砕き、古からの孤高の魔術師は悪魔の前に供えられた“生贄”に、鋭く短剣を向けた。

「我は汝の眼前に贄を捧げよう! その贄を糧に、一千年の遥か昔に奪われ、隠された、我が真の名を取り戻されよ! ――――」

 低く鋭く、叫ぶようなその“命令”の言葉に、悪魔は再び空間を破裂させるような咆哮を上げた。
 孤高の魔術師が下す命令に、従おうと。
 捧げられた贄と、命令の代価は等しかった。取引は、成功だった。
 横たわるラズの周囲で、砂が巻き上がる。
 悪魔が纏う靄が、徐々にラズを包むように集まり始める。これまで何度も見た光景だった。
 かつて自分を心から愛した供犠が、悪魔に喰われていく様。
 何度も見て、何も感じなかった。どんな相手が魂を抜かれようが、又は肉体ごと滅びようが。恐怖の断末魔を上げようとも、絶望の涙を流しながら自分を見つめても、何も感じなかった。
 
 何も感じなかった――筈だった。

「…………ラズ……」
 彼の名前が、勝手に口をついて出た。
 彼をとりまく靄が、密度を増していく。
 これまで彼と共に過ごした日々の思い出が、次々と脳裏に浮かんでは消えて立ち替わる。まるで走馬灯のように記憶のフィルムが駆け巡った。
 一つの思い出が瞬く度に、赤闇は残された左眼を見開き、己の身に起こった変化に驚愕する。

 彼は――ラズは脆く純粋で、
       痛々しいまでに頑なでいて、強く弱い、
       哀れで愚かで――
            そして、何よりも――

「―――――――――――っ!!」
 自分でも、一体何をしているのか解らなかった。何故、今自分はこのような愚行に走っているのか、魔術師としての理性は全く理解できないでいた。
 何をしているのだろう。何故このような事をしているのだろう。自問自答しつつも、その魔術師にあるまじき行いは止まらなかった。
 赤闇は、駆け出していた。
 悪魔が、捧げられた贄を喰らわんとした正にその時、赤闇はマジック・トライアングルの聖域に向かって駆け出した。
 赤い帽子が、白い羽根飾りを泳がせながら地に落ちる。杖も短剣も放り出し、あろうことか靄に包まれるラズを抱きとめて聖域から半ば転がるように脱出した。
 理性も理屈も無かった。
 ただ感情の衝動に任せて動いていた。
 何とか守護結界の魔法円までラズを抱いて戻るが、その程度でどうにかできるような状態ではない事を、赤闇は魔術師としてよく解っていた。悪魔を召喚している最中に、儀式を中断させたらどうなるか――
「っ!」
 身を起こし、短剣を拾って身構える。
 悪魔が、赤闇に敵意を向けた。
 当然だ。生贄を途中で横取りにされたのだ。魔界の大王であるプルソンを前にそのような行為をすれば、怒りを買って斃されるのが当たり前だ。悪魔が持つ、禍々しく圧倒的な敵意が赤闇に殺到する。全身を貫くような威圧を受けながらも、赤闇はこれまでとは全く別種の強い“意志”をもって悪魔を睨みつけた。恐慌が湧き上がる。圧倒的な気配と共に、足元の砂が巻き上がり、蝋燭の灯が次々と消え、明度が一気に下がった。僅か数本に残った蝋燭の灯りの中で、眼前に聳える存在を確かに感じる。余りにも弱々しい灯りで、かろうじて自身の輪郭を見る事はできた。
 立ち上がり、胸の前で両腕を交差させながら、足元の魔法円に目をやれば、案の定巻き立つ砂によって、陣が僅かに消えかかっていた。このままでは危ない。大王プルソンを前に守護結界など大した役にも立たないが、それでも完全に結界を壊されれば勿論危険度は高くなる。
 だが、ここで終わる訳にはいかなかった。魔術特有の呼吸法を更に深め、体内の霊的不純物を徹底的に浄化する。
「――大宇宙の意思に従いたり精霊プルソンよ! 我が求めに応じて現れし汝は、かつ今後も我が汝を召喚せしときは速やかに応じるべし。汝の住みかに戻れ! 我と汝の間に平和の永遠なれ!」
 高らかに唱えたのは、悪魔“退去”の聖句だった。
 まだ“命令”が達成されてもいない悪魔を強制的に退去させる。そうして強引に儀式を終了させるのだ。でなければ悪魔は永遠に現界に留まるだろう。それ以前に、自分も、ラズも滅びる。
 させない。
 呼びだした悪魔は魔術師に従う下僕だ。命令を取りやめようが何をしようが主人の自由だ。好きにはさせない。
 一千年の長きに渉り魔道を極めてきた、この赫き魔術師の呼び名に懸けて。
 悪魔が、怒りの咆哮を上げる。空間が共鳴し、怯えて震える。それでも、退去の聖句を繰り返し続けた。悪魔が完全に退去するまで、決して止めてはならないのだ。
 更に砂が巻き上がり、魔法円が消されていく。完全に魔法円が消えるか、悪魔が退去するか、どちらが早いかに懸かっていた。額に浮かんだ汗が玉になり、顎を伝って地に落ちる。悪魔が起こす靄が鋭い風となって赤闇に突き刺さり、赤いマントがばたばたと激しい音をたてた。常人ならばとっくに発狂し、狂死するようなこの世のモノではない威圧を真正面から受けながら、それでも赤闇は怯まなかった。自分の力量は、こんなものではない筈だ。
「――汝の住みかに戻れ! 我と汝の間に平和の永遠なれ!――――」
 己の持つ全霊力、魔力、精神を込めて聖句を唱える。
 マジック・トライアングルに据えられた水盤が、これまでとは逆に靄を吸い込み始めた。徐々に悪魔の輪郭は溶け、水盤の中に渦を巻きながら吸い込まれていく。一つ、また一つと残された蝋燭の炎が消える。しかし確実に悪魔は魔界へと還っていた。輪郭は靄へと霧散し、それが現界と魔界を繋ぐ水盤へと流れていく。
 聖句を繰り返しながら、赤闇は自分の精神も体力も、大きく消費しているのを悟っていた。しかし悪魔が完全に退去するまで保てればいい。あと一押しだ。必ず遂行してみせる。
 とうとう悪魔を構成する殆どのものが霧散し、止めどなく水盤に流れ込んでいく。もう少しだ。呼吸が荒れ、声を掠れさせながらも、退去の聖句を繰り返す。
 悪魔の殆どが、水盤へと還っていく。その様を見据えながら、赤闇は心内に僅かな安堵を浮かべた。
 その時、
「!!」
 もう残り僅かのところで、悪魔の爪が赤闇に飛んだ。
 真正面から発せられたソレは彼の右顔に――右顔に張り付いていた仮面に直撃した。
 白地に金の装飾が施された仮面は、悪魔の最後の攻撃にひび割れ、直後パンッと音をたてて破裂するように砕け散った。
 破片が宙を舞い、地面に落下するのとほぼ同時に、飛んできた手も靄と同化して、全てが水盤へと消えていった。
 悪魔が、魔界へと還った。
 途端、赤闇はガクンと崩れ、地に片膝を着いて何とか上体を支えた。
「――っ……はあっ……はっ……はあっ……」
 肩で荒い呼吸を繰り返し、じっとりと浮かんだ汗を袖で拭う。体力の殆どを短時間で消耗したが故の反動で、体が痙攣する。震える手で、露わになった右顔に触れる。
 右顔はぽっかりと空洞になった眼窩から頬にかけて醜くひび割れ、歪んでいる。手袋越しにその感触を確かめ、攻撃が仮面を貫いて己を傷つけてはいない事を確認する。この程度で済んだのは、ほぼ奇跡だった。
 まだ激しく痙攣する膝を押さえて立ち上がり、短剣を握り直す。まだ儀式は終了していないのだ。やり遂げなければ、今後の生活に支障が出る。
 そして紡ぎ出す、“閉鎖”の聖句。魔法円を閉じ、守護天使を退去させる。
 霞む視界の中でその様を見届け、最後の“祓い”を執り行う。カバラ十字の祓いを繰り返し、魔術儀式の穢れを完全に絶つ。
 全ての儀が終了し、今尚横たわるラズの顔を左目に映しながら、赤闇は今度こそ、その場に崩れ落ちた。

「………」
 どの程度気絶していたのか解らない。実際には一時間も経っていなかったが、それでも随分回復していた。目を開け、地面の感触を確かめて自分が滅んでいない事を確認する。
 本当に、運が良かった。
 ゆっくりと身を起こし、割れた仮面の破片を踏みつけながらラズに歩み寄り、体を拘束している鎖を消失させる。最初は百本余り灯っていた蝋燭も、今では僅か二本しか点いていなかった。その最後の二本の灯も消して、ラズを抱き上げ、まだふらつく足取りで地下室を後にした。
 長い階段を昇りながら、眠るラズの顔を見つめる。
 ああ、そうか――
  こういう事か……
 左目から、そっと暖かな涙が一筋零れたのを感じながら、赤闇は悟った。
 自分は彼を、脆く純粋で、痛々しいまでに頑なでいて、強く弱い、哀れで愚かで――
 そして、何よりも、
 ――愛しいと、感じていたのだ。
 寝室へ入り、自分のベッドにラズを寝かせる。時計を見れば、時刻は午前三時を回っていた。
 しばしの後、小さな呻き声と共に両の瞼を開けたラズ。その紅の瞳で傍らに座る赤闇を見上げ、何が起きたか解らないといった表情を浮かべる。
 静謐でいて何処か柔らかな静寂の中、赤闇は語った。
 自分が千年前、悪魔に名を奪われた事。今むき出しになっている右顔の理由。これまで自分が行ってきた生贄の儀式。ラズに近づいた本当の理由。そしてつい先程、地下であった一件。自分がラズを、悪魔から奪い返した事――
 淡々と、長い時間をかけて、ようやく全てを語り終えた。
「――――ソウカ……」
 それら全てを聞いたラズは、ぽつりと、ただ一言そう言った。責めるでも嘆くでもなく、たった一言そう言って、それ以上は何も口にしようとしなかった。
 また、無言の静寂が降りる。窓の外で空は白み始め、鳥の鳴き声が高く響いている。

「……ラズ」

 名を、呼ぶ。

「………何ダ?」

 応えて、顔を向ける。

「……これまで、ずっと気付かなかったし、多分これが初めてなのだと思う」
 赤闇の言葉に、ラズは無言で続きを待つ。

「今更、私が言っても笑い話にしかならんのだろうが……」

 天井を仰ぎながら、自身に語りかけるように、言葉を紡ぐ。ラズに向き直り、その瞳を真正面から見据える。ラズも、その視線を避けようとはせず、真っ直ぐに自分を見返した。

「恐らく私は―――ラズを愛している」

 また、静寂が降りた。しかしそれは決して冷たくない、優しく暖かな沈黙だった。白んだ空から僅かに漏れる淡い明かりが、互いの顔を優しく浮き出させる。
 ラズは一瞬、微かに瞳を見開き、その後すぐに全てを理解したような、優しい微笑を浮かべた。

「――――――アア。私モ赤闇ヲ選ブヨ……」

 瞼を伏せながら、そう言葉を紡ぐ。
 そうしてそっと、互いに寄り添った。
 一千年と、七百年。
 膨大な時間の、膨大な遠回り。しかしそれも、今では無駄じゃなかったと、互いに思えた。ラズは彼を、新たな存在意義にしようと決めた。赤闇は自分が、ラズの為にある存在になろうと決めた。

 始まりの気持ちが何時だったのかは、解らない。それでも赤闇はいつの間にか無意識の内にラズを求めていた。それは計算ではなく、純粋な欲求だった。彼を手に入れたかった。他の何にも奪われたくない。自らを責めるラズを諭す言葉は、いつしか本心から生まれていた。そして悟った。“自分以外にラズの存在理由になれる者はいない”と。そして思った“彼の右目の赤を消してやれない己が悔しい”と。
 自由に、ありのままにしてやりたかった。
 過去の存在意義や成り立ちに縛られず、ありのままの“ラズ”にしてやりたかった。
 ただただ、愛しかった。
 自分を選んでほしかった。
 彼と共に居る時間が心地よかった。ふと気付くと生贄にする事など忘れていた。
 互いは、互いの想像を遥かに超えた存在になった。それはラズも赤闇も同じ。この“負の感情の凝縮体”が、この“赤い悪霊”が、こんなにも愛しい存在になろうとは、どちらも全く、思いもよらない事だった。運命の環は、こうして廻るのだ。つまりは、神の悪戯か。偶然と必然の巡り合わせ。世界の、数多の物語による交錯。
 肩を寄せながら、赤闇は思った。恐らく自分はもう、名前を変える事はないだろうと。ラズに出会い、そして名乗ったこの名前が、自分の永遠の名になるだろう。
 自分の名は、赤闇。赤き闇を纏う古の魔術師。本来の名前など、もう必要ない。ラズの前に現れた自分を表現する名前は、“赤闇”。ただ一つなのだから。

 窓の外を泳ぐ、澄んだ鳥の声を聞く。

 ラズはジズに造られた。ジズという存在が崩壊しないように。しかしその理由も、彼が後に出会った恋人によって剥奪され、存在する意味を失った。
 そんな自分は、役目を失ったガラクタだと思っていた。思考を巡らせば巡らす程、己がどうしようもなく醜い存在に思えてならなかった。最初から生まれてこなければ良かったと、出口の無い思考を繰り返し、苦悩に絶叫する日々だった。
 それを、“彼”は変えた。
 過ごす日々に、光をくれた。
 自分が在るための理由をくれた。
 認めたら、自分は自分でなくなるような気がして、恐怖した。更に堕落して、愚かな醜態へと成り変わるのではないかと苦悶した。そうして悪足掻きをしつつも、本心ではちゃんと解っていた。ただ、認めるのが恐かっただけ。永い永い回り道をして、ようやくここに辿り着いた。ジズと同じように、“自分”の居場所を、やっと見つけた。
 彼と――赤闇と共に、在り続けようと。

「――――今日は、私が珈琲を淹れてこようか」
「……ソウダナ。ダガモウ少シ………コノママデ居タイ」

 肩を寄せ、シーツの上で指を絡め合いながら、互いに瞳を閉じる。
 そんな二人を窓の向こうで、薄明るくなった空に浮かぶ、白く透けた月が、ただ静かに見下ろしていた。



‐END‐


 終わったああああああああああああああ!!!!! この話だけかなり長くなったけどやっと終わったあああああああああああ!!!! 
 授業中の落書きから生まれた赤さんが、こんな風に成長しました;ラズもなぁ;最初はジズ一筋の攻めキャラだったのに…今や立派な受けに!; …うん。まぁ、いいよね?^^;
 あ、この話で赤闇が使った聖句は一つの例です。魔術儀式の呪文には一杯バリエーションがあるので、「私が知ってる呪文と違う! これ間違ってる!」とか言わないで下さいまし;あくまでも一例です。因みにほぼ間違ってはいません;
 因みに、生贄は普通祭壇の上で殺すとかありますが…ラズさんは殺しようが無いんで地面に寝かせちゃいました;せめて祭壇にするべきでしたが面倒だったんで;;
 あと、今回召喚されたプルソンの補足説明をば;
 第20番目の悪魔、大王プルソン(PURUSON)。22の精霊の軍団を持っていて、その中には力天使や座天使もいます。獅子の顔の人間の姿で、手には獰猛な毒蛇を持ち、熊に乗って現れるその姿は見苦しくないとされます。蛇持ってるとか熊に乗ってるとかは情景説明面倒だったので省きました;でも現れる時に多くのトランペットが鳴り響く、ってのは採用しました;
 能力は作中で説明したのに加え、人間の姿も天使の姿も取る事ができ、また良い使い魔を授けてくれます。
 本当はプルソンじゃなくて、第9番目のパイモンも考えたんですが、ルシファー様の忠実なる下僕だから…;パイモンだとどうしてもルシ様の説明入ってしまうので、面倒だったのでやめました;紫雲は天使や悪魔が大好きなのです。特にルシと4大天使辺りは大好きですvvルシとミカが双子とかマジ素晴らしいと思うよ。「明けの明星」様ああああ!!!
 脱線しましたが、何とか連作は終わりました。待ってて下さった方、お待たせして申し訳ありませんでした;
 ここまで読んで下さり、本当に有難うございました!!