※グロテスクな描写があります


深紅に染まり 狂う夜


 赤闇は、ラズ邸にほぼ居候状態だったが、たまには遠く離れた自分の屋敷に帰っていた。そこで、思いついた疑問を文献で調べたり、魔術道具の手入れをしたり、下僕の死霊達がきちんと働いているか監視したりする。大体いつも四、五日でラズ邸に戻ってくる。彼が自分の屋敷に戻るのは二月に一度あるか無いかだった。

 だからその月に一度の夜に、赤闇がいなかったのは偶然――間が悪かった。

 ――いい夜だな
 深夜、屋敷に一人でいたラズはバルコニーから夜空を見上げていた。昨日から殆ど実体化していなかったので、まだ睡眠は必要ない。
 しんとしすぎて、風の音も木々のざわめきも聞こえない。ただ見上げた夜空は恐ろしい程晴れ渡っている。青白く輝く大きな満月が、空を藍色に照らし、星々の輝きを圧倒している。満月の独壇場。そんな夜空だった。
 幽体化した半透明の体で、無音の夜を味わう。
 一人でいるから淋しい、とは思わない。一人でも楽しめる。一人を楽しむ。そんな考え方が出来るようになったのは、赤闇がいてくれたからなのだろう。
『私がいない間、淋しがって泣くなよ?』
『――……馬鹿者ガ』
 彼がここから出る時、そんな会話をした。
 淋しがりやしない。彼は必ず戻ってくると解っているから。
 今は彼がいない分、一人の時間を有意義に使って楽しむ。
 そうだ、久しぶりに、満月の夜空を散歩しよう。
 そう考えて、彼はバルコニーから空へ舞い上がった。

 赤闇と一緒になったあの夜も、こんな満月だった。あの時も、ゾッとする程美しい満月が青白い月光を放っていて、その月の下で胸の内を吐きだした。
 あの夜と同じように、上へ上へ、決して近づかない月を目指して上昇する。どんなに高く舞い上がっても、月の大きさは変わらないのにそれでも上空へ飛び続ける。地上が遥か下界になった頃、やっと上昇をやめる。静かに瞳を閉じ、冷たい月光を全身に浴びる。自分以外全ての命が寝静まったような無音の夜空で、白い亡霊がぽつんと浮かんでいた。月光で彼の金色の髪が、より一層美しく艶めく。
〈………………〉
 やがて瞼を開けたラズは、一瞬更に上空を見上げてから、今度は一気に急降下した。
 ジズと同体だった頃は、彼もよくこうして夜空で浮遊していた。元々あまり幽体化しない彼だったが、たまに夜空を飛びまわり、宙に返り、上昇し、下降する。
 自分もたまには、こうして飛び遊ぶのも悪くないと思えた。
 地面すれすれまで下降し、止まる。そこから見上げると森の木々の間から、先程と同じ月が静かに輝いている。静寂の中、月光を浴びて仄かに光る雑草を見下ろし、ラズは地面から少し浮かび上がったまま、滑るように森の中を移動した。普段歩く時とほぼ同じ目線だったが、歩調によって生まれる僅かな視界の上下という物がない。平行にスライドしていく夜の木々を、少し新鮮な思いで眺めるラズ。そのまま暫く飛んでいると、やがて木々が開けて建物が見えた。
 屋根の上に十字架を掲げた、古びた建物。
〈――アア……此処カ〉
 ポツリと呟く。
 色々な思い出が生まれた、あの教会。
 ラズが見上げる位置から、丁度屋根の十字架と満月が重なって見える。満月に晴れた夜空と古びた教会。そしてそれを取り巻く静寂の森。絵のような神聖感満ちる美しさに、しばし見入る。聖なる気を備えた教会と、浄化作用を持つ月光。それらに対して幽霊が美を感じて見入るというのは滑稽だ。そう心内で呟き、ラズはふっ、と笑いを漏らした。
 自分にとって始まりと終わり、そして新たな始まりをもたらした、この古びた教会。この建物の存在自体を知っている者が、果たしてどれだけいるのだろう。自分以外の者が出入りしている場面を少なくともラズはほんの数回しか見ていない。それも随分前、まだ赤闇に出会う前に周期的にこの場へ足を運んでいた時だ。今となっては訪れる事自体しなくなったが、それでもこの場所には様々な感情が詰まっている。
 絶望。懺悔。恥辱。殺意。寂寞。
 元々“感情”の凝縮体が故に、それらは直接己の身を裂いた。周期的にやってくる苦悩の渦。そこから救い出したのは、紛れもなく“彼”だった。
 自分にとって深い思い入れのある建物だ。古く、利用者が少ないからと言って、取り壊されなければ良いのだが。
 だが例えこの教会が取り壊されたとしても、あの時の想いは己の中に在り続けるだろう。もしかしたら、よりはっきりとした思い出の形になるかもしれない。
 瞳を閉じ、薄く笑みを浮かべて、ラズはそのまま教会の前を通過した。
 が、
「!?」
 突然幽体化が解け、足が地面に着地した。前方向に移動中だったので反動によって転びそうになったが、素早く体勢を立て直して踏みとどまる。青い羽根飾りと金色の髪が大きく揺れた。
 一瞬の重力を感じ、ほんの少しばかり鼓動が早まる。
 何故突然? 心内で疑問を呟き、周囲を見渡して納得した。
 ラズの立つ地面より少し向こうで、月光で鈍い金色に光る十字架が落ちているのが目に入った。
 ゆっくり歩み寄り、よく見ると落ちているのは十字架だけではない。
 古びた杯、錆びた錫杖。それらは全て教会に安置されていた物だ。
 誰かが悪戯で持ち出したか、換金しようとしたがボロボロすぎて金にならぬと捨てていったか、そんなところだろう。
 何にしても、あの教会から物を持ちだされるのは不快だ。本心ではこれらを元の場所に戻したいところだが、直接触れれば肉が焼け爛れる。一般に店で売られているアクセサリーの十字架等は何も影響がないが、教会に挙げられる備品として一度聖別の儀式が成された物ならば効力を持つ。
 古くても聖物は聖物。こんな物が近くにあったら霊力は使えない。突然幽体化が解けた理由はこれだ。
「……ヤレヤレ」
 息を吐きながら前髪を梳きあげる。危なかった。もう少し高く浮いていたら怪我をしていたかもしれない。
 もう充分夜の散歩は楽しめた。今夜はこのくらいにして屋敷に帰った方がいいだろう。聖物からある程度離れればまた幽体化できる。もう帰って、珈琲でも飲もう。草の上に散乱した教会の備品は、誰かが元の場所に安置してくれれば良いのだが……。
 メメかペペにでも話しておこう。
 そう思考を巡らし、再び空を見上げる。
 茂る木々がぽっかりと開けた天上に輝く満月。きっと次の満月は赤闇と共に見上げるのだろう。薄く笑みを浮かべて瞳を伏せ、一歩を踏み出した、瞬間――
「ッ!!」
 素早く背後を振り返って身構え、前方を睨みつけた。
 今、ほんの一瞬空気の糸目を縫って届いたような、細く冷たい、静かな――殺気。
 常人ならば気付かないような、ほんの僅かな殺気を確かに感じた。だが振り返った夜の森には何もいない。月光によって落とされた影の中に、何かが潜んでいるのか。いや、もう気配もしない。
 鋭く、周囲を睨む。
 これまで美しいと感じていた景色が、途端に鬱蒼として暗澹な空間に変わった。
 何かが居る。
 何処に?
 右の袖口からカードを取り出し、静かに構える。
 今この場で何かに襲われるのは不利だ。霊力が使えないのは痛い。体術はそこそこの自信があるが、それで手に負えない相手だった場合はどうする。ゆっくりと聖物から離れるか。しかし相手が何処に潜んでいるか解らない以上、下手に身を移動させるのは危険ではないか。
 神経を研ぎ澄ませ、周囲の気配を探る。
 ぴんと張り詰めた無音の夜気。何処から攻撃されても対処できるよう、臨戦態勢に入る。

 沈黙。

「………………」
 何処からも、何の物音も気配もしない。
 静かすぎて耳鳴りがする。先程感じた殺気は、気のせいだったのだろうか。
 それとも、身構えた自分を手に負えないと見て、諦めたのだろうか。
 数分が経過したが周囲に変化は見られず、ラズはやっと警戒を解いた。
 何も無いのならそれでいい。今夜はもう、早急に帰った方が良い。
 静かに息を吐き、踵を返して足を前に踏み出した。

 その瞬間、何かに肩を強く掴まれた。

「ナッ――!?」
 驚愕する。
 鋭い爪が肉に食い込み、その痛みに顔を歪めるラズ。恐ろしい程の力で振り返され、直後乱暴に地面に押し倒された。青い羽根飾りを数枚宙に舞わせながら、帽子が草の上を転がる。
 背中にドンッ、という衝撃を受け、軽い眩暈を起こしたが何とか視野を取り戻した。
 そして自分の肩口を今尚掴み、覆いかぶさって自分を見据えている相手を目にして、戦慄する。

 この背格好は――

 緑の人狼?
 否、今目の前にいる男の髪は月光に照らされ、冷たい赤色に光っていた。
 ――もう一人の……赤い人狼の方か!
 思い至った瞬間、ラズの中で敵意が沸き起こる。
 以前、この獣に灸を据えてやった事があったが、まだ足りないか。ならば今度こそ思い知らせてやる。
 しかし金色に光る獣の目と視線がぶつかり、緊張が走った。
 そうだ。今宵は満月。
 人狼の力が最も滾る夜ではないか。しかも今の自分は満足に闘えないのに加え、体勢も圧倒的に不利。更に自分のすぐ傍らには、触れれば大火傷する聖物が転がっている。下手に身をよじるのも危険だ。
 どうする。
「何ノ真似ダ……? 赤イ人狼」
 低く、唸るような声音で静かに問う。獣の血が滾った人狼にまともな会話など成り立たないだろうが、少しでも時間を稼がなければならない。人狼相手で体力戦では到底歯が立たない。せめて今この場に聖物などなかったら――。
「………何の真似? 見つけた餌にありつこうとしてるに決まってるだろ?」
 獣の目をした彼はそう言うと、ぺろりと舌舐めずりして、嗤う。
 あの緑の人狼、アッシュと元の種族や祖先が同じという事から、不思議なくらい瓜二つの外見をしているが、性格はアッシュと全く違って狂暴な男――赫はじわじわとラズの肩を掴む手に力を込める。
 ぎしっ、と骨が軋み、食い込んだ爪は肉を突き破り、ラズの白い紳士服にゆっくりと赤い染みを広げていく。絞られるような痛みに顔を歪ませながらも、赫を睨む目に満ちる敵意の色は消えない。
「貴様ノヨウナ汚ラワシイ獣如キニ喰ワレテ堪ルモノカ。下衆ガ」
 言いながら、悟られぬように今尚右手に持ったままのカードを構え直す。相手は人狼だ。銀の物で胸を貫かなければ簡単には死なない。急所を攻撃したところで即死はしないだろう。こんな男は殺してしまっても一向に構わないが後処理が面倒だ。
 また、半殺しにでもできれば――
「――失セロ。野獣ガ!!」
 鋭く叫ぶと同時に右手からカードが飛んだ。
 赫の首めがけて真っすぐに空を切り、到達する間に左手に持ったもう一枚のカードで直接肩を掴む腕を斬りつける。首に向かったカードは紙一重でかわされ、直接斬りつけようとしたカードはもう一方の手でラズの手首ごと掴まれて止められる。獣の血が滾った今夜は俊敏さが普段の数倍増している。しかしここまでは想定内だ。これで赫の両手は塞がった。
「ッ!」
 ラズは仰向けの状態から空いた左手で覆いかぶさる赫の鳩尾を、渾身の力を込めて殴り上げた。だが――

「……何だ……この程度か」
 
 全く微動だにしないまま、赫は笑いを含んだ声でそう言った。満月の夜は肉体も強化されるという事か。
 しまった!
 そう心内で叫んだ時には遅かった。
 掴まれたままの右手首を、通常ならあり得ない角度までいとも簡単に押し曲げられた。
「ガッ……!!」
 ぼぎっ、という鈍い音がして直後火を噴くような激痛が走り、一瞬体が痙攣する。
 手首から指先、二の腕までが灼熱した。喉の奥から噛み殺した悲鳴がせり上がり、視界が白く点滅する。
「餌は餌らしく……大人しくしとけよ」
 へし折った手首を離し、今度はラズの首を掴み上げるとそのまま立ち上がり、自分とほぼ同じ身長の彼を片腕で持ち上げた。
「グッ……!」
 簡単に地面から足が浮かされる。
 頸動脈を締められ息が出来なくなった。苦痛に顔を歪めながらも、必死で首を掴む赫の手に縋りつくように左手の爪を立てる。月光の下、地面の草の上に片腕で宙吊りにする方とされる方の、二人の影が映る。折られた右手はぶらんと宙に投げ出され、鼓動に合わせて脈動するような痛みを響かせた。
 それでも、ラズの双眸から敵意に満ちた光は消えない。
 こんな獣……!
 たかが人狼風情がよくも!!
 腕一本で宙に吊るされながらも敵意を向けるラズを面白そうに眺め、更に首を掴む手に力を込める。ぎりぎりと骨が軋み、だんだんと白くなっていく意識を、奥歯を噛みしめる事で保った。しかしそれも時間の問題だろう。
「ラズ、あんたには前に世話になったな。今夜は大人しく喰われてもらうぜ」
「……気安ク……呼ンデ……クレルナッ!」
 苦し紛れに、絞り出すように喘ぐラズに、赫は鼻で嗤いながら次の言葉を吐いた。

「なぁ……“Razz”って随分と悪趣味な名前だよなぁ。今はてめえ(自分)が俺に嘲笑されてんだもんな」
「ッ!!」

 憎悪と殺意が一気に湧きあがる。例え今夜自分が食われようとも、このままでは絶対に済ませない。
 何も知らない癖に――
 この名前に込められたジズの想いも、自分がこの名前に対して想う自責の念も、何も知らない癖に――!!
「また殺気立ったな? 餌は大人しくしろと言っただろ?」
 言って、にぃっと嗤った。
「!」
 そしてその直後、鋭く体が夜気を切り、一瞬瞳を見開いて驚愕する。視野の森が、赫の顔が高速でスライドし、反転して冷たく輝く満月が瞳に映る。放り投げるように、また激しく地面に叩きつけられた。
「……ガハッ!!」
 先程より重い衝撃が背中から全身に響き、折られた手首にまで達して激痛に神経が焼けるような悲鳴を上げる。首から手は離されたが、肺が痙攣して呼吸が出来ず、全身の筋肉が縮み上がった。動けない。
 そして、ラズが叩きつけられた衝動で傍に落ちていた“幾つかの金属の塊”が僅かに浮き上がり、その瞬間月光を鈍く反射した光が、赫の目に入った。
「――――ああ」
 一拍置いた後、彼は酷く狂気じみた、酷く愉しそうな笑みをその顔に張り付け、口の端を更に攣り上げて狂った嗤いを浮かべた。
「そういや前に、ユーリの奴から聞いた事あったっけな……」
 呟きながら仰向けに倒れるラズに歩み寄り、乱暴に衣服を引き裂く。透き通るような肌が露わになり、その胸に咲く黒薔薇の刻印が月光に照らされた。
 身を捩ろうとするが、酸欠で上手く力が入らない。霞む視界の向こうで冷たく輝く月が映るが、覆いかぶさる獣の影によって閉ざされた。相変わらず折れた手首は内側から金槌で叩くような痛みを発し、呼吸は途切れ途切れとなり体が痙攣する。それでも憎悪によって保たれた意識が、この場からの脱出以上に赫を斃す術を探っていた。しかし、
「“あんた達”は、“こういう物”に触れないってさ」
 そう言いながら、“傍らに落ちていた十字架を拾い上げた”。
「!!」
 瞬間、霊として存在するラズの本能が、警報を鳴らした。ぞくりと悪寒が背筋を駆け上がり、冷たい汗が滲む。皮膚という皮膚が粟立った。息が止まり、瞳を一杯に見開いて硬直する彼の前で、赫は愉しそうに目を細めて十字架を弄ぶ。
 そして再び口を開いて、
「なら、“もし触ったらどうなるか”、試してみるか」

 言い終わると同時に、ラズのむき出しの胸に古びた小さな十字架を、思い切り押しつけた。

 刹那――

「アアアアアアアアアアアアアアァアアアァァァァァァァ!!!!!!」
 思わず耳を覆いたくなるような悲痛な絶叫が夜の森に響き渡った。
「アッ! アアアアア!! ガッ……アッー!!」
 十字架に触れた皮膚はまるで真っ赤に焼けた鉄を押しつけられたように、じゅうっ、という音をさせて煙と共に肉の焼ける嫌な臭いを立ち上らせる。目を剥き、喉を仰け反らせて絶叫し、体は突っ張った。絶えず喉の奥から迸る絶叫。そうする間にも聖なる熱はラズの肉を焼き続け、彼の意志を、理性をもぎ取っていく。その様を赫は嗤っていた。嗤いながらラズの胸に十字架を押し当て続けた。
 肉の焼ける音、ラズの悲鳴、立ち上る煙と異臭。それらは混ざり合い、壮絶な不協和音となって満月の森に満ち満ちていた。

「――カハッ!」

 やっと気が済んだのか、赫は十字架をラズの胸から離す。
 そこに現れた皮膚はくっきりと十字架型に焼け爛れて赤い血が滲み、やがて透明の組織液を垂れ流し、ブスブスと音を立てながら煙を上げていた。
「ア……グゥッ……」
 灼熱する痛みに顔を歪め、口の端からは唾液が零れる。びくびくと不規則に痙攣する体。喘ぐように呼吸し、全身に汗を浮かべて余熱で肌を焼かれるおぞましい感触に耐える。十字架型の火傷は焦げた肉を露出させ、血と組織液が月光に反射しておぞましく照っている。いつの間にか瞳に滲みだしていた涙は、酷く熱かった。
「――いいザマだな。少しは大人しくしてろよ」
 そんなラズを、狂気を湛えた金色の瞳で見下す赫。もう、自分の意志で体を動かす事すらできない。聖なる傷は通常の人間が傷を負うのと同じくらい治りが遅い。跡が残る事はないが、それでも完治には数カ月かかるだろう。
「……ッ……ハッ……ウゥ!」
 激痛に悶え苦しむラズの上に覆いかぶさる赫。致命傷だ。もうどうしたって反撃などできない。折られた手首なら時間さえ経過すれば治癒していくが、この大火傷はそうはいかない。絶望がひしひしと押し寄せる。元々実体化しても存在しない体温が、更に冷たく冷えきっていくのを感じる。しかし傷口は火を噴くような熱を発し、もはや手首の骨折など気にならない程の激痛を体中に響かせている。
 細く筋を引くように流れる血と、焼けた皮膚から滲みだす透明な粘液はラズの薄いクリーム色の皮膚を流れ、やがて引き裂かれた白い紳士服に染み込んで汚していく。
「……それじゃあ、頂くぜ」
 耳元で囁き、赫はそのままラズの剥きだしのうなじに顔を埋めると、思い切り咬み付いた。
「グッ――アアアアアアアアアアアァァ!!!」
 噴き出す鮮血。絶叫するラズに構わず、肉の奥深くまで牙が食い込む。べりっ、べりっ、という細胞組織が千切れていく怖気立つような音が絶叫に混ざる。
 ぶちんっ、と耳触りな音をさせながら、赫はラズの肉を咬み取った。抉られたようなぎざぎざの傷口から真っ赤な血が噴き出し、ラズの肌を、金色の髪を遠慮なく汚した。
「クゥ……!」
 左手で激痛に火を噴く傷口を押さえ、押し殺した呻き声を上げる。肉を噛みきられたのだからこの傷は簡単には治癒してくれそうにない。一晩はかかるだろう。胸の火傷にうなじの傷、このままでは本当に嬲られるように喰われてしまう。
 しかし満足に動けもしないこの状態で、どうやって逃げだせば良いと言うのだろうか。絶望。黒く冷たく、心の内を染め上げていく絶望に、ラズは強く歯噛みする。全く止まる気配を見せず溢れ続ける鮮血は肌を、服を赤く汚し、草の上に池を作りながら鉄錆びの臭いを漂わせる。赫はくちゃくちゃと口の中で肉片を転がしながら咀嚼し、旨そうに喉を鳴らしながら嚥下した。
「グッ!!」
 胸から腹部にかけて鋭く走った爪に、赤い傷口がぱっくりと口を開ける。目を剥き、喉を仰け反らせるラズに構わず、赫はその傷口に顔を埋めて肉を食い破った。
「ガッ……!! アアアア!!」
 腹部の肉を食い荒らし、顔を血で汚しながら今度は内腑に牙を立てる。
 灼熱する傷口と背筋を駆け上がる悪寒。それでも決して意識は失わないように、強く奥歯を噛んで激痛に耐える。溢れる鮮血はラズの下の草を赤黒く汚し、地面にまで染み込んでいく。赫が内臓を食いちぎって顔を上げる度に血の飛沫が飛び散り、ラズの顔を、周囲を汚していく。生身の人間ならばとっくに意識を失っているであろう惨劇の中、耐え続けられたのは一重に彼が“感情”の凝縮体故の強さを持っていたからだろう。
 しかし激痛の中彼が頭に思い浮かべていたのは、もう赫への殺意ではなかった。
 ――赤闇……
 ラズの中にあったのは、彼に対する申し訳なさだった。彼がいない間に、このような無様な醜態を獣如きの前で晒している自分。ただひたすらに申し訳なかった。
 己を呪った。もっと早く、この事態を回避する手段はあった筈だ。なのに何故――
「ヒッ……ヒグッ!!」
 肋骨を二本同時に引き抜かれ、一瞬意識が真っ赤になる。痙攣するラズを見下ろしながら顔についた血を袖で拭い、赫は嗤いながら口を開く。
「へぇ……ここまでやっても寝ないなんて大したもんだな。気に入ったよ」
 痛みに悶え、悲鳴を上げる姿がどうしようもなく赫の欲望をかきたてる。ラズのスラックスに爪をたててゆっくりと裂き、右の太腿が露わになる。細くしなやかな脚に血が流れた。腹を爪で掻き乱され、ぐちゃぐちゃという背筋が凍るようなおぞましい音と共に血が泉のように溢れ出す。飽和する血気の中、満月は無言で彼らを赤く赤く照らし出していた。
 瑞々しい果実を頬張るようにラズの肉を、内臓を貪る赤い人狼。既に悲鳴も喉から出てはこない。口から血が溢れ、首から胸まで流れている。ラズの紳士服に、もう“白い”部分は何処にもなかった。ぼろぼろに千切れたそれは血糊を吸い、ぐっしょりと重く皮膚のあちこちに貼りついている。
 月が照らす全てが、赤かった。
 飛び散る肉片に鮮血。獲物が大人しく自分に喰われている事に対して、時たま上がる赫の狂った笑い声。あまりにも壮絶な光景が夜の森に広がっていた。
 ぐちゃ、ぼき、ごり、という怖気立つ音だけが無音の夜に響く。
 赫は食欲が満たされたのか、やっとラズを貪るのを辞めると、月光の下の彼を見据えた。
 美しい顔を自身の血で汚し、ぐったりと虚ろな目は視点が定まっていない。かろうじて意識があるようで、細い虫の息をしていた。
 にぃっ、と口の端を攣り上げる。
「喜べよラズ。あんたは俺がとことん喰い尽くしてやる。“あっちの方”もな」
 耳元で囁くように放たれた言葉に、霞に沈みそうになっていたラズの意識が一気に引き戻され、恐怖心が絶叫する。
 嫌だ。絶対に嫌だ!
 こんな獣にこれ以上身を穢されて堪るものか!
 しかしどんなに理性が恐怖しても、体は動かない。腕や足の一部は神経が切断され、他の部位も痛みで指の一本も動かす事はできない。
 恐怖に深紅の瞳を見開き硬直するラズの顔を眺め、赫はふと、何かに気付いたような素振りを見せると、すぐに下卑た嗤いを漏らした。
「――ああそうだ……そう言や、前から気になってたんだよ……」
 そう言うと突然ラズの髪を掴み、無理矢理上体を起こさせる。体に敷かれていた草が、にちゃ、と粘性のある血で糸を引かせながら離れた。
「……クッ……」
 顔を顰めて小さく呻くラズに構わず、赫は言葉を続けた。
「あんた達のその“仮面の内側”、一体どうなってるのかってね」
「ッ!?」
 瞳を見開く。
 本能が悲鳴を上げた。
 今の自分から仮面を剥ぎ取る事は容易だろう。しかし見られてなるものか。この瞳をこんな、何も知らない欲望に塗れた獣に見られるなど我慢ならない。自分だけではない。この右目の深紅を見たら、恐らくジズもこうなっているだろうと察しが付くだろう。そうなれば、確かめてみようとするかもしれない。
「……ヨ……セ……ッ!」
 呻くラズを、赫は愉しそうに見つめる。彼にとっては全てが遊びでしかない。ラズが悲鳴を上げたり嫌がったりすれば、逆に愉しくて仕方ないのだ。
 警報を鳴らす意識。絶対に、見られる訳にはいかない。しかし体は動いてくれない。偽りの鼓動が早鐘のように鳴り響き、それに合わせて傷口から血が溢れる。冷たい汗が浮かび、緊張に息ができなくなった。
 そんなラズを嗤いながら、赫は彼の右顔に貼りついた黒い半仮面に、赤黒く汚れた手を伸ばした。
「――――ヤメロッ!!」

 思わず叫んだラズの顔に伸びた手は、突然飛び出してきた何かによって弾かれた。

「っ!?」
 予想外の事に困惑する赫。ラズは仮面を掴まれる筈の手が大きく逸れたのを見て、次いで自分達の傍らに佇む赤い影を目にして、驚愕した。

「やめておけ。貴様はそれを見るに値しない」

 低く、闇の底から響いてくるような声でそう言いながら、今しがた赫の手を蹴り上げた足を血で汚れた地面に下ろした赤い影。飛び込んできた衝動でマントは棚引き、黒い髪も揺れている。白い羽根飾りが付いた帽子は、少し遠くの地面に落ちていた。
 冷たい銀灰色の瞳を鋭く細め、赫を睨む顔の右側には――白地に金の装飾が施された半仮面。
「……赤………闇……?」
 小さく呟くラズに、彼は悲しげな目を向ける。
「――すまないなラズ。遅くなった」
 言って、再び赫に冷たい刃のような眼光を向けた。
「その汚らわしい手を離せ。獣め」
 思わず背筋の凍るような声と瞳で言い放つ。しかし赫は構う事なく笑みを浮かべて口を開いた。
「……ああ、あんた、コレの恋人だったか? 夢中になりすぎて気付かなかったよ」
「ラズを愚弄するな」
「そんな強気な事言ってても、あんただって“こういう物”には触れないんだろ?」
 言って、赫は傍らに転がっていた、血で赤黒く汚れた十字架を拾い上げた。眉を顰め、赤闇は憎々しげに言葉を吐く。
「……貴様は“ソレ”を……ラズに押し当てたのだな」
 ラズの胸にくっきりと残った十字架型の痕を見れば、それは明らかだった。赫はラズから手を離し、十字架を持ったまま立ち上がる。力なく汚れた地面に倒れるラズは、その衝撃で全身に走った激痛に呻きつつ、赤闇を見つめながら心内で叫ぶ。
 駄目だ。いくら彼であっても、霊力が使えない以上体力戦で勝ち目は無い。彼も自分と同じように聖物によって致命傷を負い、この人狼によって貪られてしまうかもしれない。
「……赤………逃ゲ……」
 苦し紛れに絞りだされた言葉はあまりに小さく、誰の耳にも届かない。
 嗚呼、彼まで血を流すような事になったら自分のせいだ。自分などの為に彼が八つ裂きにされるのは、仮面の内の素顔を他人に見られる事より我慢ならない。
 駄目だ!
「お望みならあんたも、俺が食ってやるよ」
「……できるものなら、やってみるがいい」
「ははっ!」
 赤闇の言葉に赫は乾いた笑い声を上げながら、十字架を掴んだ手を飛ばした。
「赤闇ッ!!」
 悲鳴のような叫びを上げた。
しかしそんなラズの目の前で、彼は信じられない事に十字架を避けるでも払いのけるでもなく、自ら掌で受け止めた。
「なっ!?」
 赫にとってもその行動は全くの予想外だった。ラズも同じように驚愕し、一瞬何をしているのか全く理解できず硬直する。
「――ぐぅ!」
 白い手袋から肉まで焼く痛みに顔を顰めながら十字架をしっかりと掴むと、彼は赫の顔を眼球目がけて蹴りつけた。
「くっ!?」
 どれだけ肉体を強化しても、“瞳”という弱点はどんな生き物も変わらない。瞬間緩んだ手から十字架をもぎ取ると大きく振りかぶり、そのまま森の奥めがけて思い切り放り投げた。
「!」
 間髪いれず地面に転がったままの他の聖物も蹴り飛ばした。鋭く空を切ったそれらは、すぐに三人の視界から見えなくなる。
「……これで、イーブンだな」
 瞳を冷たく光らせてそう言葉を綴る赤闇の、だらんと下げられた右手からは肉の焼ける臭いと共に煙が昇っている。蹴り飛ばした靴の先からも、僅かに。
 少しでも触れれば体の自由を失う筈の熱と痛みを自ら掴み、かつ放り投げられたのは、ラズを救おうというただ一つの意志があったからだろう。冷たい月光の下、血気に満ちる空間に赤い二つの影が対峙する。
「……へぇ……姫君を救いに来たナイトって訳だ? 頑張るねぇ」
 怯む事なく言葉を吐く赫を黙殺し、次いで傍らに倒れるラズを見る。あまりにも傷が深すぎる。聖なる火傷はラズ自身の体力も霊力も削り、他の傷の治りまで遅らせるだろう。一晩で治癒するかどうかも危うい。
「……よくも……ここまでやってくれたな」
 ざわり、と、大気が歪んだ。その変化に獣の感性が反応し、赫は訝しげに眉を顰め、ラズはかつて見た事のある彼の様子に、再び背筋を凍らせる。
 そうだ。今の赤闇が放つ、周囲の全てを射竦めて凍らせるような冷たい気配は、かつてあの月の丘でラズを生け捕りにしようと本性を現した時の、絶対的に冷たい悪霊の気配。更に今は、あの時には無かった底知れない“怒り”が加わって激しく荒れ狂う殺意を彼の内に燃え立たせていた。体が震えだしそうな程に滾った、憤怒。
 許せない。
 許さない。
 ラズを傷つけていいのは、自分だけだ!
 怯まない赫がまた挑発の言葉を投げようと、口を開きかけた、瞬間――――

 轟っ!!

 突然視界が真っ白になる程の爆光が炸裂し、火炎が赤闇を中心に渦巻いて燃え上がった。
「っ!?」
 突如目の前で爆発したあまりの光と熱風に腕で顔を庇う赫。ラズも反射的に目を閉じ、熱風が顔に吹き付けるのを肌で感じた。
 爆発して燃え上がった業火は高く高く渦を巻き、やがてむくむくとその形を成していた。
 細く目を開けたラズも、赫もその姿に驚愕する。
 
 それは、炎の龍だった。

 赤闇の頭上、満月の光も平伏す程の眩しい業火で形をなした“炎の龍”は、轟々と激しく燃え狂う音をさせながら首をもたげた。
 そして次の瞬間、上空から真っすぐに、目にも止まらぬ速さで炎の龍は赫を呑みこんだ。

 ――ぎゃああああ――ああ―――あああああ――――っ!!

 炎の中で絶叫する人狼の叫びが、轟々たる爆音の奥から僅かに聞こえる。
「……燃え尽きろ」
 しかしその状況を作りだした本人である赤闇は、あまりにも冷たい瞳を炎の塊に向けて、静かに言い放つ。
 目の前で行われる壮絶な光景を前に瞬きすらせず、冷酷な目を鋭く細める赤き悪霊。その炎はすぐ傍らに倒れるラズには掠りもせず、ただ熱風を放出するまでに留まっている。ラズはその光景に眩しさで目を顰めながらも、背筋を凍らせて見つめていた。
「!」
 火葬にされると思った人狼は、しかし地面から大きく跳躍すると、体を炎に舐められながら周囲に立つ木に飛び移った。
「――ちっ」
 舌打ちする赤闇。普通の相手なら今の炎で身動きなどできる筈がないが、今夜の人狼の身体能力はずば抜けている。それに加え、骨まで消し炭にするつもりだった霊力の炎は、掌に負った聖なる傷によって僅かに威力が下がってしまっていた。その僅かな隙をついて、獣は逃げ出した。
 人狼は炎を身に纏ったまま、次々と森の木々に飛び移って姿を消した。
 殺すつもりだった。殺しそびれた事に腹が立った。しかしそれは自分の都合だ。あの獣の後を追う必要など全くない。
 それよりも――
「……ラズ」
 そっと、彼の傍らに膝をつく。抉られた腹部に、切り刻まれて数え切れない量の赤い筋を引かれた手足、肉ごと噛み取られたうなじ。そしてじくじくと組織液と血を滲ませる、自分の掌と同じ大火傷。思わず目を逸らしたくなるような痛々しい姿に、赤闇は語りかける。
「――すまない」
 言って、霊力をもって彼の体を浮き上がらせる。本心では直接抱きしめたいところだが、触れれば傷が悪化する事は明らかだった。自分は幽体化し、彼と共にふわりと地面から浮かぶ。ラズが何か言おうと口を開いたが、声を出す前に赤闇が制する。
〈……お前は何も言うな〉
 ラズは霞む視界の中で、赤闇がすぐ隣にいて自分を見下ろしている事、そして赫が姿を消した事に安堵して緊張の糸が切れたのか、眠るようにやっと気を失った。
 閉じられた瞳。その顔を斑に汚す血糊を月光が照らす。金糸の髪も血でべっとりと汚れ、ボロきれのように破れた服を纏い、それも血で赤黒く濡れて、僅かに治癒しかかっているもののまだ生々しい肉と白い骨を覗かせている傷口が、ぬらりと光る。
 あまりにも痛々しく変わり果てた、最愛の恋人の姿。その様に、悲しみと怒りと懺悔の念で顔を歪ませ、赤闇はラズの屋敷に向けて舞い上がった。

                   


 少しでもラズの傷の治りが早まるよう、薬とガーゼと包帯で丁寧に手当てをしていく赤闇。最も、自分の右手は大火傷で殆ど使い物にならないので、左手と霊力で処置していく。胸の火傷には、昔万が一の事態を備えて調合した軟膏を塗る。保存しておいて良かったと思う反面、まさかこれを最初に恋人に使う事になるとは思っていなかったと、苦笑交じりの溜め息が出た。ラズの傷を全て手当てしてから、やっと自分の掌にも軟膏を塗り、ガーゼを当てて包帯を巻く。薬が触れた瞬間、びりっと痺れるような痛みを感じたが、このくらいの痛みはラズが味わった激痛に比べれば何でもないと、理性でもってねじ伏せた。
「……………」
 無言で、深い眠りに落ちている彼を見つめる。血の跡が残るだろうと思い、仮面は外しておいた。皮膚に付いた血は綺麗に拭いとり、破れた衣服も取り除いた。その代りに真白な包帯に体を包まれ、軽く柔らかい、温かな羽毛の布団を優しくかけられた、愛しい人。髪に付いた血糊は流石に落としきれなかったので、傷口が塞がったら洗ってやろう。
 安らかな顔をして寝息をたてるラズ。
 何故。
 何故こうなる前に自分は戻ってこなかったのだろう。
 もう一日――せめてあと半日でも早くこの場に戻っていれば、ラズが人狼に喰われる事はなかった筈だ。
 最初、この屋敷に戻ってきた時、何処を探しても彼の姿が見えなかった。空を見上げれば、大きな満月が浮かんでいた。満月が好きな彼の事だ。きっと夜空の散歩にでかけたのだろうと、呑気に思考を巡らせて空に飛び立った。
 もう少し、もう少し早ければ、彼が人狼と遭遇する前に合流できたのではないか。己の不甲斐なさに、内腑が煮えたぎるような怒りが湧きたつ。
 彼を護ると心に誓っていた筈の自分は、この体たらくだ。
 悔しい。あの人狼如きにラズを傷付ける事を許した己が悔しい。
 彼が目覚めたら、一体何を言えば良いのだろうか――
 窓の外に広がる空はだんだんと白み始め、やがて朝焼けで世界を埋め尽くして、その眩しさに赤闇は目を顰める。やっと悪夢の夜が終わった。
 橙の日の光が、ベッドに横たわる彼を照らす。閉じられた長い睫毛が頬に影を落としたと思えば、ぴくり、と、瞼が動いた。
「………………」
 ゆっくりと深紅の両目を開けたラズ。最初は視点の定まっていない様子でぼんやりと自室の天上を見上げていたが、やがて隣に座る赤闇の姿を目に映した。
「………セ……キ………?」
「ラズ……」
 最初は今の自分の状態が理解できていないようで、夢現のような声で呼び掛けたラズだが、その声に応えた直後、全てを思い出したように瞳を大きく見開いた。
「――赤オ……ウグッ!」
「起き上がるな! まだ完治していないだろう」
 慌てて上体を起こそうとしたラズを制してから、赤闇はそっと彼の腹部に巻かれた包帯を緩めて中を覗き込んだ。
「………表面は塞がったか。しかしまだ内臓と骨までは再生していないだろう」
「……アア。完全ニ再生スルニハ……モウ少シカカリソウダナ……」
 痛みに顔を歪ませながら答えるラズだが、最も痛むのは腹部ではなく、胸に残った火傷である事は明白だった。ぎり、と奥歯を強く噛みしめる。これから暫く、彼はこの火傷の痛みに苛まれるだろう。
 自分以外がつけた傷に。
 それが赤闇には堪らなく悔しかった。
 ラズを癒すのも、ラズを抱くのも、ラズを傷付けるのも自分だけだ。
 自分以外の者が付けた傷でラズが苦しむのに耐えられない。いっそこの傷口自体を、この手で深く深く抉り取ってしまえたら――
 限りない独占欲が膨れ上がる。愛しくて、愛しくて愛しくて仕方なかった。他の何モノにも、彼の心を乱されたくなかった。それは彼が自分のものになったあの日からこれまで、ずっと想い続けてきた、何よりも純粋な願望だった。
 なのに、できなかった。
 心も体も傷つけられた愛しい人。やがて傷が完全に消えても、心の傷は消えないだろう。そっと包帯に触れていた左手が、僅かに震える。後悔、憤怒、悲嘆、それらの念が胸の内で黒く渦を巻く。自分が、何よりも許せない。
「………!」
 包帯に触れたまま震える手を、ラズがそっと包み込んだ。はっとして彼に視線を戻せば、ラズは悲痛な面持ちでベッドの上に置かれた包帯に巻かれた赤闇の右手を見つめていた。その様を訝しく感じ、どうしたのかと口を開きかけたところで、先にラズが言葉を発した。
「――スマナイ……」
「…………何を……」
 突然彼が発した謝罪の言葉に、目を丸くした。
 何故、彼が謝るのだ?
「オ前ニマデ……ソンナ傷ヲ………」
「!」
 ようやく、謝罪の意味を理解した。
「……お前が謝る必要は何処にもないだろう」
「違ウ! ソンナ事ニナッタノハ私ノセイダ!」
 彼は、今にも泣きだしそうな顔で、悲痛な声で、振り絞るようにそう吐きだした。彼も又、己のせいで恋人に大けがを負わせてしまったと、自分を責めていたのか……
「――お前のせいな訳があるか。全て私が自分で、こうしたかったから勝手に動いた事だ」
「ソ……! 違ッ」
「頼む。お前が謝らないでくれ」
 言いながら、そっと彼を自分の胸に引き寄せた。そのまま、傷に響かないように優しく抱きしめる。
 謝らなければならないのは自分なのだ。頼むから、もうそんな悲痛な顔をしないでくれ。
 彼の耳元で、掠れた声でそう囁いた。いっそ泣いてしまいたい。目を閉じて、しっかりとラズの存在を胸に感じる。彼はここにいる。今は確かにここにいるのだ。
「……来テクレテ………有難ウ」
「!」
 自分の腕の中でそう言葉を綴ったラズに驚き、視線を合わせる。彼は儚げな微笑を湛えながら――
「オ前以外ニ、コノ顔ヲ見ラレズニ済ンダヨ」
 言って、そっと赤闇の唇に自分の唇を重ねた。
 それだけでもう、互いに充分だった。
 瞳を閉じ、愛しむように彼の頭を撫でながら、長く長く唇を重ねていた。
 窓の外から、澄んだ鳥の声を聞く。
 ようやく唇を離すと、赤闇はいつもの笑みを浮かべたまま、
「………この髪は、私が洗ってやろう」
 そう言って赤黒く汚れたラズの髪を撫でる。
「馬鹿者ガ。オ前ハ片手シカ使エナイダロウガ」
 ラズも、いつもの調子で、しかし少し恥ずかしそうに赤闇を睨め上げる。
「それは問題ではない。私が洗いたい。それだけだ」
「………馬鹿者」
 溜め息を吐きながらそう言うラズを、赤闇はまた抱きしめた。


END


 終わった。満月ネタその2。実はまだ満月ネタその3もあるんです。次の次くらいに書きます。え? もう飽きた? 解ってますごめんなさい。でも書きたいから書く。
 小説では赫初登場じゃないですかこれ。しょっぱなからこの役回りは……。うん。仕方ない。赫だもん。因みに十字架を金色にしたのは、銀だと人狼にも効力のある武器になっちゃうから。まぁ、ぶっちゃけ人狼が満月で変身するとか銀の物に弱いとかは映画や小説で捏造された話だから、実際の人狼には効かないんだろうけど。いいんじゃない?
 早く赤に助けてほしくて、前回のよりグロ描写が少なくなりました。期待していた方、申し訳ありません;
 そして後半ダラダラになってすみません。いつもこうだな;
 何かもうほんとに……私が書く物なんて御都合主義だけど……書きたいから書かせて下さい。
 こんな駄文をここまで読んで下さって本当に有難うございました!!!