霞の剥落


 細く、静かな雨が降っていた。
 昼下がりの空は灰色の雲で薄暗く塗り潰され、全ての物の色を濃くしながら、それでいてぼんやりと靄がかかった景色を窓ガラスの向こう側に作り上げていた。
「………………」
 気だるい空気の中で、ラズは珈琲を一口啜る。豊かな香りが口の中を満たし、安らぎを与えてくれる。自室のデスクでランプの灯りを受けて、珈琲の表面が淡く照らされた。雨の日は特に用事が無ければ、外出はしない。自室で珈琲を飲みながら、窓から外の景色を眺めるのが好きだった。ガラスの向こう側で、雨の雫が一粒流れる。

〈随分と優雅だな〉
 
「!」
 突如、脳に直接響いた声に振り向いてみれば、案の定宙に赤いマントをふわりと翻した幽霊が浮かんでいた。
「貴様ハ……。毎回毎回、突然虚空カラ現レルナ。来ルナラチャント玄関カラ入レ」
「そうしたら玄関より先に通してくれないだろう?」
 溜息交じりにそう言って不機嫌そうに眉を顰めるラズに、幽体化を解いて返答する赤闇。
 あの日、教会で会った時から、もう何度も彼はラズの前に現れていた。最初は頭ごなしに突き放していたラズだが、ここ最近は諦めも加わり彼の訪問を妥協している。
「ソウヤッテ入ッテキタトコロデ、貴様ニ出ス珈琲モ紅茶モ無イゾ」
「結構。だから今日は良いタイミングだったな」
「何――ッテアアアア貴様ァ!!」
 赤闇はひょいとラズのカップを取り上げると、そのまま何の容赦もなく飲み干した。
「……ふむ。毎度良い豆を使っているな。ドイツ人の私を黙らせるとは中々」
「ホザケ。イタリア人ヲ舐メルナ。ッテソウジャナイ! 前回ハ許シタガ今回ハ許サンゾ!! ソノ一杯分ノ代金ヲ払エ!!」
「隙を見せるお前が悪い。前回も言ったろうに」
 空になったカップをソーサーに置きながら、赤闇は喚くラズに微笑を湛えて言い返す。
「それに自分の珈琲を奪われたくないのなら、最初から私の分を用意しておけば済む事だろう」
「何故私ガ貴様ニソンナ事ヲ!」
「客人に対する礼儀だ」
「貴様ヲ客ト認識シタ覚エハ無イナ」
「まぁ、一番いいのはビールを用意しておいてくれれば」
「フザケルナ! 馬鹿モ休ミ休ミ言エ!!」
「ドイツ人はふざけないぞ?」
「イヤ勝手ニ決メルナ!!」
 このようなやり取りが日常茶飯事になりつつある自分は彼に弄ばれているのではないかと頭を抱えるが、赤闇はそんな事全く意に介さない。深く重い溜め息を吐きつつ、いつから自分はこんなツッコミばかりする立場になってしまったのだろうと思考するが、間違いなく赤闇と知りあってからだとコンマ以下の早さで納得する。
「まぁ、イタリアと言えばエスプレッソだしな。だがジズが紅茶好きというのは珍しいな。イタリア人は紅茶には疎いのに」
 帽子とマントを脱いで勝手にポールに掛けながら、赤闇。
「……アア。紅茶ガ ヴェネツィア に輸入サレタノハ死ンデカラ随分経ッタ後ダッタガ、最初下僕ノ人形ガ紅茶ヲ淹レテミタガ案ノ定不味クテナ。ソレデ ジズ ガ勘デ淹レテミタラ美味ダッタンダ。ソレカラダヨ」
「成程。下僕が淹れるよりジズが淹れた方が美味かったのか。納得できる」
 半ば呆れるように笑ってそう言う赤闇。こんな何気ない会話を交わすのは、ジズと赤闇だけのように思う。ジズはいい。彼とはあの日打ち解けてから、本人にはあまり躊躇せずに言葉を交わすようになった。その他、メメやロキといった面子とはしばしば話をする。だが、ここまで打ち解けて話しているのは赤闇だけのような気がしてならない。何の前触れもなく自分の前に突如現れた、この訳の解らないドイツ産悪霊と、一体何故自分はこんな風に言葉を交わしているのだろうか。
「――デ? 今日ハ一体何ノ用ダ?」
 頬杖をつきながら煩わしそうに訊ねると、赤闇は一つ小さく息をついてから、
「いや、こう度々お前の珈琲を拝借するのは流石に悪いと思ってな」
「思ッテイルナラ最初カラスルナ!」
「それは不可抗力だ。話は最後まで聞け」
 何故か、赤闇にそう言われるとそれ以上何か言う気が失せる。実はさりげなく自分に黒魔術をかけているのではないかと疑った。
「だから、今日は私から差し入れだ」
「……ホウ。珍シイ事モアルモノダナ。ダガ一体何ヲ……――――ッ!!!!!」
 虚空から瞬時に赤闇が手に出現させた物を見た途端、見て明らかにラズの顔が凍りついた。
 その手に握られていたのは、見るからに高価そうなワインと、恐らくクリスタル製のワイングラスが、きっちり二つ。
「イタリアと言えば、やはりワインだろう? それなりに上等な物だぞ。やはりイタリア人への土産はビールよりワインの方がいいと思ってな。考えてみれば、まだお前と酒を飲んだ事も無かったしな。………どうした?」
 自分と同じ薄いクリーム色の肌を青褪めさせて表情筋を引き攣らせているラズを見て、訝しげに首を捻る。が、ラズは咄嗟に言葉を思い浮かべる事も出来なかった。背筋を冷たい汗が伝う。
「イ……ヤ……エト………」
「何故そう唐突に顔色が悪くなるのだ? まさかワインが嫌いと言う訳ではなかろう?」
「ソ………アノ……」
 何と返したら良いか解らない。
 そうだ。別にワインが嫌いなのではない。酒類全般が大の苦手なのだ。
 酒豪のジズの対極のために、ラズは本当に酒に弱かった。洋酒入りの菓子を食べただけで酔ってしまう程なのに、ましてや比較的アルコール分が高いワインなど飲んだらどうなってしまうのか自分でも解らなかった。これはいけない。何とかしてこの状況を打破しなくては。自分の決定的な弱点をこの男に悟られてはならない気がする。必死に脳細胞をフル活動させ、言い訳を考える。
「……先程ソレハ私ヘノ差シ入レト言ッタナ? 差シ入レナラバ私が丸ゴト貰ッテ当然ダロウ? ダガ、生憎私ハ昼間カラ酒ヲ飲ム趣味ハ無イ。オ前ガ帰ッテカラ、晩酌ニ頂クコトニスル」
 何とか取り澄ましてそう言ってはみたが、自分でもまだ頬が引き攣っているのが解る。赤闇は無表情にラズを見据えていたがやがて軽く息を吐きつつ、
「……何だ。つまらんな。ドイツでは昼間からビールを飲むがイタリアでは昼間からワインを飲むだろう? それとも今更日本かぶれか?」
「私ハ、ダト言ッテイル。ダカラ夜ニ飲ムカラ置イテ帰レ!」
「だったら夜まで待たせてもらうよ。折角二人で飲もうと思って持ってきたのだぞ」
 まずい。
 これは、まずい。
 何とかして赤闇を早く追い出して、その後ワインはジズの処に持っていけば喜ばれるだろう。だがこのままでは何が何でも飲まないと気が済まないようだ。これではいけない。
「……お前、まさか下戸か?」
「違ウ!!!」
「なら良いだろう。ほら」
 そう言って手早くコルクを開けると、少量グラスに注いでこちらに向けられた。
「…………………」
 もう、こうなったらほんの一口飲むふりをして、少量舐める程度で口に合わないからと突き返すしかない。
「……仕方ナイナ」
 決心すると、少し震えの混じった返事をして恐る恐るグラスを手に取った。窓の外で雨脚が強くなり始める。しばしグラスの中で揺らぐワインを見つめ、息を飲んで覚悟を決める。満足そうに自分のグラスにワインを注ぐ赤闇を横目に、ほんの少量、口内を濡らした。
 口の中一杯に、ワインの味と風味が広がった、瞬間――
 ぐらり、と視界が歪み、赤闇が何か叫んだ気がしたが、そのまま意識を飛ばしていた。

           


「――――ウゥ……」
「気が付いたか?」
 薄く開いた靄がかかった視界の中で、どうやら自分は倒れたらしい事を悟る。僅かに頭痛がする頭を活動させて、徐々に視界の靄を晴れさせると、今自分はベッドに横になっているようだった。そして、
「ッ!」
 横になったまま、赤闇の腕を枕にして半ば抱かれるような体勢になっていた事に気付いた瞬間、それまでの霞んだ視界やら眠気やらだるさやらが吹き飛んだ。
「貴様何ヲ――痛ッ!」
「急に起き上がるな。頭に響くぞ」
 正にそうなってから言われても遅く、ラズは頭蓋に響いた痛みに顔を顰めた。
 外はいよいよ本降りになってきたらしく、雨風が激しく窓を叩いている。時計に目を向けると、もう夕方になっていた。
「……まさか一口飲んだだけで転倒するとはな。飲めないなら最初からそう言えば良いものを……。無理しおって」
 こうなってしまっては、もう隠しようがない。笑いを含みつつそう言う赤闇に、ラズはもう思い切り睨みつけるしかなかった。それにしても、本当に少量舌の上に乗せただけで倒れるとは――改めて自分の弱点を見直した。
 赤闇はベッドから降りるといつの間にか卓上に置かれた水差しを持ち上げ、グラスに注いでラズへ手渡した。
「一応飲んでおけ。少しは気分も良くなるだろう。因みにこれはお前の下僕に言って持ってこさせた水だから安心しろ」
 勝手にメバエに用を言いつけるとは無作法な。もう彼は何度もラズの家に来ているので、メバエも警戒せずに従ったのだろうが、もう少し厳しくしつけておかなければいけないかもしれない。とんでもない命令を出されて従われては困る。
 そんな事を考えながらも渋々グラスを受け取るラズ。一口飲むと、息がすっと通るような気がした。
「…………………何故言わなかった?」
「言エルカ!!」
 少し俯いて怒鳴る。折角の努力も水の泡だ。
「――ジズハ、瓶四本飲ンデカラヤット酔イガ回ッテクル位酒ニ強インダ。ダカラ」
「その反対のお前は一口飲んだだけで倒れる程弱いと。成程な。異常なまでの大酒豪と異常なまでの下戸か」
 そこまで言ってから、ふとラズを見つめ、
「……見た目では逆に見えるが」
「大キナオ世話ダ!」
 残った水を一気に喉へ流し込み、空になったグラスをデスクに置いて、またベッドに身を投げた。スプリングで一瞬マットレスが跳ねあがり、彼の金髪が不機嫌に揺れる。シーツの冷たさを肌で感じ、気圧の変化で再びまどろみ始める意識に任せて緩やかに瞼を閉じた。
「………悪カッタナ。ドウセ私ハ ジズ ノ紛イ物ダ。偽リノ存在ニ下手ナ期待ナド持タヌコトダ」
 言いながら、右顔に付いた黒い半仮面を指先で撫でる。未だに、ラズは己の存在を妥協できないでいた。完璧に同一でもなく、完璧に対極でもない、出来そこないのコピー。それが今の自分に押された烙印のように思う。所詮は偽物。今更何をしようが、己が生まれた罪は消えない。

「――“偽り”の何が悪い?」

 静かにそう呟いた赤闇の言葉に、ラズはピクリと反応して瞳を開いた。
 再びベッドに歩み寄りながら、更に続ける。
「“偽物”が間違いで、“本物”が正しいと、一体誰が決めたのだ?」
 ラズの顔の脇に手をつき、頭上から少し背を曲げて彼を見据える。
 赤闇には目を向けず、ラズはただシーツの一点を見つめたまま口を噤んだ。
「そんな物、いつの間にか敷かれた固定観念でしかない。お前が自身の思考をそれに従わせる必要が何処にあると言うのだ?」
 徐々に瞳を見開き、シーツを固く握り締めた。赤闇の言葉は大きな石となり、胸の内に広がる湖に投げ込まれる。水面には波紋が広がり、石はやがて底に溜まった、願いと言う名の泥を舞い上がらせる。しかしそれを無視して、ラズは低い声で反論した。
「………貴様ニ……ソンナ事ヲ言ワレル筋合イハ無イ」
「有るな」
 絞り出すように言った言葉を、赤闇はあっさりと否定する。
「何故ソウ言エル!?」
 鋭く叫んで睨みつけるが、彼は無表情に自分を見下ろしてから、小さく息を吐いて、
「ッ!」
 ついていた手を軸に、ひょいと自分もベッドに乗ると、そのままラズを正面から抱きしめた。
「お前が好きだからだ。何度同じ事を言わせる」
 しっかりと抱かれながら、息を飲んで瞳を見開く。しばしの後、苦い面持ちのまま言葉を吐く。
「……悪霊如キノ言ウ事ナド……信ジラレルカッ」
 唸るようにそう言うが、赤闇はふっと笑ってから、
「………好きでも無かったら、七百年も待っていなかったぞ」
 囁いて、よりしっかりとラズを抱きしめる。
 胸の内からせり上がってくる熱い衝動を飲み下し、拳を固く握った。
「ダッタラ……ソレハ貴様ノ勘違イダ。本心デアル筈ガナイ。悪霊ガ負ノ感情ノ凝縮体ヲ好キニナルダト? 馬鹿馬鹿シイ!」
 眉間に皺を寄せて吐き捨てるラズ。
 そうだ。あり得ない。ある筈がないのだ。
 一人の人間が三人もの命を奪い、自らも命を絶ち、更に悪魔とおぞましい契約を結ぶまでに至った殺意と憎悪と悲嘆と懺悔の凝縮体。自分で思い起こしてみても、酷く穢らわしい存在だった。こんな存在、創られた当初の理由を失った今では全く価値がない。存在する意味のないこの身を、一体どんな理由があって愛すると言うのか。
 唯一自分を必要としていた相手は、もう、自分を必要としていない。
 あの人狼が現れたから――
「………ッ」
 ぎり、と奥歯を軋ませて、新たに湧き上がる殺意を押さえこむ。考えまいとしていても止められない。彼が――ジズが最も愛したあの人狼に対する殺意を、どうしても完全に消す事ができない。
 あの男さえ現れなければ、自分がジズの中から分裂して、存在意義を失う事も無かった筈だった。たかだか二十年弱しか生きていない青二才に、誰よりも大切な人を奪われた。
 結局こうなるのなら、どうして自分が創られるより前に現れてくれなかったのだ。
 何度も何度も考えた憎悪。
 そうしていつも最後に辿り着くのは、そんな事しか考えられない己に対しての絶望。愛しい人が愛した相手を、完全に許す事ができないちっぽけな自分。それがより一層己を穢らわしい存在へと塗り固め、醜く仕立て上げていくのが解るのに、そうと知りながら再び同じ思考を繰り返す自分は、何と愚かなのだろう。諦めても、ふとした時に殺意は湧き上がる。一度区切りを付けたつもりでも、簡単に元に戻ってしまう。
 何度も何度も繰り返す悪循環。その渦中から脱出できない愚かな自分を、一体誰が愛すると言うのだろうか。
「――そうか。勘違いか……」
 やっと納得したのか、小さくそう呟く赤闇にラズは安堵の息を吐いた。
 そうだ。それでいい。これ以上自分を堕落させるのも、絶望を味わうのも御免だ。
 しかし、赤闇は更に言葉を綴った。

「だったら私は、永遠に勘違いしたままでいい」

「――――ッ!?」
 その一言に、赤い両目を一杯に見開いた。
 一瞬何を言われたのか理解できず、しばし思考が停止した。
「……お前がいつまでも最初の存在理由に縋るのも解るが、そろそろ新しい理由を見つけてはどうだ?」
 囁きかける、落ち着きのある低い声。互いに顔は見えず、今赤闇がどのような表情を浮かべているかは解らないが、冗談で言っているような響きではなかった。
 しかし、頭の中で理性が叫ぶ。自分の存在の意味を、その愚かさを。
「今更……ソンナモノ………!」
「私がなろう」
 息が詰まった。己への呪いの言葉を吐こうとしたその口は、それ以上言葉を発する事ができなくなる。
「お前がこれから在り続ける為の新しい理由に、私がなってみせよう。私以外にそうなれる人材はいない。断言できる」
 正体の見えない、絶対的な自信を口にする彼は、今どのような表情を浮かべているのか――。
「……何故……貴様ニソンナ事ガ!」
「もう黙れ」
 言い終わる前に、今度こそ口を塞がれる。
 文字通り、ラズの唇に彼の唇が重なっていた。
 驚愕で瞳を見開き、硬直する。
 しばしの後に唇を離して、またしっかりと抱き竦められた。
「……もう少し眠れ。身も心も、少し疲れているのだよ。お前の眠りは、私が守ってやろう」
 そう囁く赤闇の言葉に、心の中の何かを許されたような、小さな開放感をラズは感じた。
 新しくも懐かしい、温かな感情が緩やかに胸の内に広がる。両眼に何か温かな物が溢れ、それが涙だと認識した途端、悟られまいと、彼の肩に顔を埋めた。左目の涙は零れる前に服に吸い込まれて消えたが、右目の涙は仮面の内側で零れ落ち、頬を濡らす。
 何故涙が出るのかは解らなかった。しかしそれでも、姿を掴めない感情の波が内心で押し寄せる。負の感情しか持たない筈の自分の中で、それは新たに生まれ、徐々に勢いを増して胸の内を支配した。
 熱くて、甘くて、切ない想い。
「…………ソウサセテモラオウ」
 少し掠れた声で呟き、そのまま、両の瞳を閉じた。


「………………」
 ラズが深い寝息をたて始めてから暫くして、赤闇はそっと身を起こした。起こさぬよう細心の注意を払ってベッドから降り、今尚しっかりと閉じられた彼の瞼を見て安堵の息をつく。長い、金色のまつ毛がランプの明かりに影を作り、その陰影で無垢な寝顔に更なる美を生みだしていた。窓の外ではもう日が落ち、雨も小雨へと変わっている。夜を見せる窓に自分の顔が無表情に映っていた。一つ鼻を鳴らし、ポールに掛けていたマントを纏い、帽子を被る。
 冷めた瞳で安らかに眠るラズを見下ろし、次いで、口の端を不敵に攣り上げた。
 それは先刻ラズに見せていた微笑とは明らかに違う、悪意ある狂った嗤いだった。
 そのまま身を翻し、幽体化して窓をすり抜けた。己の体を小雨が通りぬける、暗雲渦巻く夜の空を、彼は血色のマントを翻して舞い上がる。

〈――――あははははははははははははははははははははははははははははハははははハハハははハハハハはハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!〉

 高く高く舞い上がりながら、彼は霊にしか聞こえない声で、世にも楽しそうに狂気に満ちた嗤い声を上げた。そして見る者の背筋が凍るような、狂った笑みをその顔に貼りつける。
 これで、殆どの準備は整った。
 もう少し、あと少しで、奴はこの手中に収まる。
 あんな上玉は他には無いだろう。ここで逃してなるものか。
 最高の贄だ。今度こそ、自分は目的を達成できるだろう。
 そう心内で嗤い、眼下に小さく見えるラズの屋敷に一瞥をくれて、夜の闇の中へと消えていった。

 彼の今の名は赤闇といった。それは勿論本名ではなく、気まぐれで付けた物にすぎない。しかし、彼は本当は、自分の名を忘れたのではなかった。
 本当の名は、悪魔に奪われていた。
 彼は今から約千年前のドイツ――当時の神聖ローマ帝国に生きた。
 上流貴族でありながら魔道を極め、隣人からは“赤い魔術師”、“血の反逆者”等と囁かれ、恐れられていた。
 魔道の為に命を奪う事に何の躊躇いもせず、毎晩のように様々な動物が彼によって血祭りに挙げられ、時には迷い子をも生贄に捧げる残虐さを持っていた。仮面で隠れた右目は、ある高度な魔術を行った際に自ら抉り取った。その為仮面の内側に眼球は無く、ぽっかり空洞になった眼窩から、右頬にかけて醜くひび割れている。潰した右目で霊界を見、残った左目で現世を見た。それはこの道に長けた魔導師ならば誰でもする、絶対的な行為であった。
 二十代後半で、今の力を永遠の物にするために自ら命を絶ち、己の魔道をもって現世に留まった。しかしその時、代償として自身の“生”を捧げたにも拘わらず、“名前”を悪魔に奪われてしまった。それはふいをつかれての事で、何とかして取り返したいと思っている。そこで、これまで何十人もの魂を生贄にしてその機会を狙ってきたが、あと一押しという処で止まっていた。
 生贄にしたのは、自分を心から愛した者達。
 ただの魂を捧げるより、自分への愛情が満ちた物の方が“質”が良くなるが故だった。
 本心から自分を愛した者達が、裏切られたと知った瞬間の表情を見る度に、脳髄を快感が電撃の如く駆け抜ける。
 その瞬間程、恍惚を味わう時は無い。
 その瞬間程、歓喜と興奮を覚える時は無い。
 これまで悪魔への捧げ物にしてきた者達が最期に何を叫んでも、あるいは永遠に開かぬ瞼の裏側から自分を見つめても、赤闇の心が揺れる事は一切無かった。
 何故なら、彼はこれまでただの一人も、本心から愛した事など無かったからだ。他人の命など、所詮“物”でしかない。己が更なる高見へと昇る為の踏み台でしかないのだ。
 ラズに近づいたのも、勿論後に生贄にする為。
 七百年彷徨ってきた幽霊の憎悪の塊ならば、生贄にはこれ以上ない程の上玉だった。一見すると手中に収めるのは難しそうな相手だが、結局はたかが感情の凝縮体だ。その身を構成する“感情”に直接揺さぶりをかければ、そこまで難は無い獲物だった。最近だんだんと自分に惹かれ始めたラズが完全に手に落ちるのは、そう遠くない。
 その時が来たら、これまでと同じように悪魔に捧げ、そして自分の名を今度こそ取り戻す。
 ここまでして赤闇が自身の名前に執着するのは、魔道において、“名前”というのは実は己を最も強く維持できる鋳型だからだ。名を失うと、一個体としての力が少なからず弱まってしまう。名前を取り戻しさえすれば、更に強大な力を得る事ができるだろう。闇を従え、魂を飼いならし、人の恐怖を弄ぶ。魔道に望む力は限りが無い。己の限界を超越し、永遠の時をもってどこまでも高く、自分は昇りつめなければならないのだ。
 ラズなら、今度こそ、大丈夫だ。
 そう期待に胸を踊らせ、狂気の笑みを浮かべる赤闇は、その時まだ気づいていなかった。
 先刻、自分を呪う言葉を吐くラズを、いつしか本気で諭していた事を。
 先刻、ラズの唇を塞いだのは、計算ではなく全くの無意識だった事を。

 いつの間にか、実は自分自身が本気でラズに惹かれているという事に、その時はまだ、気づいていなかった。


‐End‐


 はいはいはいはいはい。終わりました。
 今回はちょっと長くなりましたかね?; いやぁ、ラズがどれだけ酒に弱いか書いてみたくなりまして;;本題に入る前の部分がダラダラと長くなってしまいました;
 うん。何て楽しいんだvv 自画自賛では無いですが、この性格は二人とも好きだ! 日記絵ログも、気がつくとラズ率が最近高いです;赤闇も高いです;;まぁ話を考えてる最中ではよくある事なんですが……。勿論ジズさんも大好きですよ!
 この二人の設定話は次回でやっと終わりです;ま、わざわざ連作にする程の物でも無いんですが……;
 生暖かい目で見守ってあげて下さい^^